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  • 2007.07.28 Saturday
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演出ノート 自主製作映画がおもしろい


制作に終わりはない

制作・演出 松本こうどう

学生が製作している自主製作映画がおもしろい。勿論どれも低予算だから金をかけた娯楽大作のような映画とは違ったおもしろさである。

来週のオチャマメ出演者の準備をしており、その中で応募された学生映画を何本か観た。やはり出来には優劣があるが、学生と言えどもしっかりとした出来のものも少なくない。ただ、全体的にストーリーや登場人物の設定があまりにも芸術的・個性的すぎて、作品の中で何を訴えたいのか意味不明の感じのまま終わっている印象の作品も多いが。

良い出来の作品はキャメラアングルなど構図の取り方などが基本に忠実でシーンの運びが上手い。ヘタなプロの上映作品にあるように、シーンが変わった瞬間に登場人物が他の登場人物と混同されるようなわかり難さがない。連続するシーンの運びもしっかりとしているから観る者をぐいぐいと映画の中の世界に引っ張り込んでいる。

出演している役者の演技も良い。監督も撮影も役者も学生だが、学生製作の作品であるという事を忘れさせるような演技も出てくる。プロの作品で、演技派ではないタレントやグラビアアイドルが「映画やドラマにも挑戦します」などと言って出演している作品よりもよっぽど良い演技表現をしている役者が出てくる。

今の時代にこういう若者が作る映画を観ていると、1970年、80年時代の若者をふと彷彿とさせる瞬間がある。8ミリ映画時代に自主製作映画を作っていた若者たちと通じるものを感じさせる瞬間がある。デジタルビデオで撮影された映画の中にアナログの世界が渦巻いている。1970年に小学4年生であった私が見た、あの時に若者を中心として創造されていくアナログの芸術の世界が、今の時代に作られる学生自主映画のデジタル映像の世界の中にはあるような気がする。

低予算だから自主製作映画はイヤでも撮影には工夫がされている。撮影後に編集やCGで加工できないから出る役者の演技や表情がそのまま映像に反映される。ここに作り手のアナログ的な緊迫感がほど良く現れる。デジタル時代には絶滅しつつある「モノ作り」の原点を思わせる精神がそこには生き残っているかもしれない。

最新のデジタル映像技術をいくら使っても、思いを込めた創造の精神がなければ人の心に何かを伝える「モノ作り」は出来ない。逆にデジタル技術が思う存分に使えない状況では人はアナログ的に何かを造ろうとするのかもしれない。

こういう作品をオチャマメで上映して、一般の方々にも是非とも観てもらいたい。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 番組のここだけの話


人も商品もイメージは演出で決まる

制作・演出 松本こうどう

もう何年も前のことであるが、私があるテレビ地上波キー局の通販番組で商品紹介の制作に関わっていた時のことである。

その日はあるスタジオでの収録であった。(詳細はチョットマズいので書けない) 当方が演出するコーヒーが紹介されるコーナーでの事である。

この番組は今の通販番組とは違い、有名なタレントが司会者とゲストとして毎回何人も出ていた。その中にある若者に大人気の雑誌出版社の役員が「・・アドバイザー」という形のコメンテーターとして出演していた。件のコーヒーは中米のある国から輸入された製品で当時「幻のコーヒー」として話題を呼んでいた。

収録前の打ち合わせ時にこの「・・アドバイザー」からこう言われた。「オレはコーヒーは専門家で詳しいし、味にうるさいからホントに美味いと思わないと本番でほめないよ」と。なるほど、番組と言えども良くないものはほめないと。

さて、収録の準備中に手違いが発覚した。スタッフのミスでコーヒーメーカーがスタジオに準備されておらず、紹介用のコーヒーが淹れられないのである。段取りでは出演者全員が本番でこのコーヒーを飲み、コメントを述べる事になっていたので、慌てて手配したが本番収録までに間に合わない。仕方なく、番組プロデューサーの判断で本番用のコーヒーはスタジオ1階にある喫茶店から出前で取ったものを使う事になった。

困惑する私に番組プロデューサーは、事前に出演者全員に事情は説明すると約束したが、一向にコーヒーは偽物である、いつも飲んでいる1階の喫茶店のコーヒーである、だけど中米のコーヒーのふりして飲んで、とにかくほめて下さいと言わないのである。

そうこうしているうちに本番が始まってしまった。出演者全員がコーヒーを飲み始める。ゲストのタレントたちはコーヒーを何故かほめる。そして例の「・・アドバイザー」が口を開いた。「私は以前にコーヒー農園主だけが飲めるコーヒー豆の木の一番良いところの豆で淹れたコーヒーを特別に飲んだことがあるが、このコーヒーはそのときの味がする。ホントに美味い」 何だか事情を知ってか知らぬか、随分とほめる。

1階の喫茶店のコーヒーである。何も特別なコーヒーではない。一杯350円のコーヒーである。そんなに美味いはずがない。「・・アドバイザー」は先ほどの言葉とは裏腹にとにかくほめてくれたのであろうか。番組プロデューサーも気にした顔をしている。

収録は無事?に終わり、「・・アドバイザー」が私のところに来る。もしかして「何だぁ、あのコーヒーは!」と怒るのかもと思う私のところに事情を説明しようとする番組プロデューサーが走ってくる。そこで「・・アドバイザー」が言った。「松本さん、あのコーヒーはホントに美味いね。中々ないよあそこまでの味は。最高だ。これからはオレの一番の推薦だよ」

エレベーターに乗り込む「・・アドバイザー」の姿をあっけにとられて見ていた私に、番組プロデューサーが言った。「松本さん、コーヒーが1階の喫茶店のものだったってことは絶対に誰にも言わないでくださいよ」

もちろん、私はこの話は誰にも言わないつもりでいたが、次の収録のときにスタジオの受付の女の子に話してしまった。大ウケしたが、そういう事はしてはいけない。反省している。

この「・・アドバイザー」は今でも時々テレビ番組にコメンテーターとして出ている。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 「テレビに出る」


制作・演出デスク 企画を考えているときは夜も眠らない・・・

制作・演出 松本こうどう

「タレントになりたいんですけど・・・やる気はあります。がんばります」 こういうタレント志望の子にまた会った。

「で、何やりたいの?俳優?歌手? それともお笑い芸人でもやりたいの?」という質問には、「いえ、芸能界に入りたいんです。何でもやります。テレビに出て温泉入ったり、グルメ番組でおいしいもの食べてレポートしたり、バラエティ番組に出てみたいんです。そういうのってありますよね」と。

この子たちにして見ると、こういうのを「タレント」と呼ぶようである。しかしコレだと、芸能界のお偉い先生方に「君は結局何をしたいんだ?タレントの世界というものは目的もなく、ただ憧れだけで簡単に入れるものではないぞ」と叱られる。

確かにひと昔前まではこういう先生方のおしゃられる事の通りであった。しかし、最近では芸能人になりたいと思う子たちは何も単なる憧れだけで言っているのではなく、テレビなどを見ながらコレなら私にも出来ると思って言っているのである。現にテレビには観光地やファッション、グルメのレポートだけをやっている若い女の子たちがたくさん出ている。それもたいしたレポートではなく、「えッ、すゴーイ!何ソレ??スッゴクおいしい!あり得ない!!!」なんてだけのコメントが画面に「字幕付き」で出てくるだけである。ただ、容姿はカワイイが。

問題なのは、この程度のレベルの番組でのレポート、コメントを制作側が疑問に思ってもいない事である。出演している「カワイイ」女の子たちも収録前に取材先の内容を調べて勉強しておこうという気もサラサラない事である。若いディレクターたちなんかは、出演者の女の子たちから常識的なことも知らない、わからないでトンチンカンな発言なんか飛び出すとかえって笑いが取れるとばかりに喜ぶ。視聴者のための番組作りではなく、番組内で自分たちが遊んでいるのだが、番組を見ている視聴者もそれを喜んでいるのが現状である。

これで視聴率の数字は取れるのだから局の上も何も言わない。こうなると先のタレント志望の子たちのようにチョットカワイイ一般の子たちから「自分にも出来る」と思われても仕方ない。実際、カメラを向けると件のレポーターの女の子ごときに「タレント」っぽく話せるシロウトの子は沢山いる。要はテレビでレベルの低い事をやっているからレベルの低いまま皆がテレビに出たがるのである。かつてタレントになりたい子たちの決まり文句であった「有名になりたい」という目的もはっきりとしていなかった、ただの願望とはまたどこか違う現象のようである。

ただ、現実はそんなに甘くはない。テレビに出ているバカに見える女の子たちも出続けるためにはそれなりに、いやそれ以上にちゃんと苦労はしているのである。そこには「テレビに出てみたいだけ」と「プロとしてやって行きたい」の差がある。ここでは詳しく述べないが、現実を見聞きして簡単にテレビに出るのをやめようと思ったシロウトの子たちも少なくない。やる気だけは絶対人には負けませんと言っていたはずなのだが・・・。

ことの本質は、シロウトの子たちが簡単にテレビに出たがるという事ではない。タレントやグラビアアイドルと称して土日の昼間のバラエティとか深夜番組などに出ている子たちに、テレビに出ているというだけでそれ以上の勉強を怠って日々の努力をしていない中途半端なプロ意識の持ち主が多すぎるということである。それなりの苦労はしてきているが、それ以上の伸びを示す態度が見られないということである。「テレビに出る」ということだけが目的になってしまっているということである。これだからシロウトになめられる。

テレビに出たい人、そしてテレビに出ている人、テレビに出るための苦労以上に出たあとは努力をしてほしい。

「カワイイ」と「ボケキャラ」だけを売り物にして安心しているようでは、いつまでたっても人を感動させられる「タレント」にはなれませんぞ。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート デジタル時代のメジャーデビューの意味

オフイス 上から
制作ルーム 明け方まで慌しい日々も多い

制作・演出 松本こうどう

インディーズが盛況である。

ネットでのPRも盛んで人気も実力も高いアーティストが多い。世間からの注目は高まっている。インディーズ・レーベルが制作する音源もCDジャケットも大手のレコード会社と変わらない質である。

アーティストがデビューする道はもはや、メジャーデビューだけではなくなっている。インディーズ界でアーティストが活躍する場やチャンスは多い。だから、メジャーデビューを考えずにインディーズ界に魅力を感じて発奮するアーティストが多数生まれている。

ヒットする事よりも自由な表現で自由な道を選べるインディーズでの活動を重視するアーティストの流れが活性化して来ている。そしてインディーズ出身の人気アーティストが増えて来ている。アルバムの売り上げもメジャーと比べて遜色ない記録を持つインディース系のアーティストが現れる事はひと昔前では考えられない出来事である。

これは音楽界での話である。漫才などのパフォーマンスではインディーズで活躍して人気を得るなどと言う道はない。こういう現象は世の中でデジタル化が一番進んでいる音の世界ならではの話である。作曲も編曲もレコーディングもネット配信もデジタル技術・機材の発達の恩恵を一番受けて成長している産業が音楽界である。その時流に乗ったアーティストが今までの「売れる」方程式に当てはまらない道で自己表現を行い、それがネット配信などを通じて若い世代に受け入れられている。

ヒップホップやポップスなど、ひと昔前に比べて飛躍的に音質が良くなっている音響機器の性能を存分に発揮するサウンドの響きは若い世代を魅了する。そのサウンドを型にはめずに良き音楽として作り上げるアーティストがメジャーであろうが、インディーズであろうが圧倒的な人気を得る。まさにデジタル世代のミュージシャンである。

かつて音楽界と言えば、演歌歌手がラジカセに録音したカセットテープを全国に売りに回ったり、歌謡曲の歌手が地方のコンサート会場の前で手書きのチラシを配ったりするのが、売れるまでの常識であった。音源がいくら良くてもモノラルのプレーヤーが主流であった時代は今とは音楽を広める流れが違っていた。

デジタル化によりアーティストの可能性は広がった。大手レコード会社と契約出来なくても有名になれる可能性のある時代である。ライブハウスも昔に比べてうんと増えた。アーティストにとってチャンスが多くなっている。「メジャーデビューでなくては」という時代ではなくなっている。

では、デジタル時代になって何故か音楽界が失ってきたものは何か。昭和時代の曲のメロディやフレーズ、歌詞は末長く人々の記憶に残っている。しかし、サウンド重視の近年の曲はレコード大賞受賞曲であってもメロディすら思い出せない人が多い。メロディや歌詞が心に残るものが少ない。人間の心の悲しみや侘びしさを唄う曲が少ない。こういった事が近年良く言われて来ている。漫才などのエンターテインメントも同じである。意外性や突発的な笑いばかりを取る芸人が増えてきている。笑いまでもがデジタル化したサウンド重視の感じがする。要は、音楽も笑いも瞬間の盛り上がりはあっても心に残る感動がない。

今の時代はデジタル化の時流に乗ったものだけが脚光を浴びている。だが、今は目立たなくても無名の新人の中には、デジタルの良さを取り入れながら、ひと昔前を彷彿とさせ、感動を作るアーティストが、音楽であろうと漫才であろうとあらゆるジャンルで必ずいるはずである。時代は変わって行く。その時にメジャーになるのはそのアーティストたちである。その文化を発祥させる場を作りたい。

だがら、オチャマメは「メジャーデビューを目指すアーティストのための公演の場」なのである。この意味で「メジャー」という言葉にこだわりではなく、夢を持ちたい。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート ライブ出演とは?

入場パス
関係者の入場証

制作・演出 松本こうどう

来週火曜日がオチャマメの初日である。

さて、今回はNYからのミュージシャン、ジーノに初日の出演をお願いしたが、もちろん初日に他の出演者の方々も準備中である。ところが、なかなか初日もしくは最初の月の出演を躊躇するアーティストたちが少なくない。

どんなライブになるのであろうか。お客さんは来るのであろうか。ほかはどんなアーティストが参加するのであろうか。準備はどの程度しておけば良いのであろうか。やはりアーティストの方々もいろいろと不安を持つ。そして最初は様子を見てから考えようと。だが、ご心配はいらない。その様な不安はもちろん制作側も持っているし、劇場(ライブハウス)側もまたしかりである。

そこに欧米のアーティストは強い。初日と聞いて、何も気にせずに是非ともその日に出たいと申し出てくる。自分で流れを作りたいかの様な積極性で話題を作ろうとする。もちろん、日本人アーティストにもその様な方々は多いと思う。しかし、実はオチャマメでは少し違う考え方をしている。

路上ライブでやっている事、路上ライブでは出来ない事をオチャマメのステージでやってくれれば良い。これはどういう事かと言うと、路上ライブでやっている事をそのままハコであるライブハウスでじっくりと座っている観客の前で披露して練習にしてもらえば良いのである。そこには路上ライブでは出来なかった事が見えてくる。

路上では観客相手として、目的と時間制限を持って行き交う人々に足を止めてもらい自分たちのパフオーマンスを見てもらう事がプロセスとなるので、やはり自分たちのパフォーマンスを最初から終わりまですべて同じ通行人(観客)に見てもらう事は難しい。通りかかった通行人は、パフォーマンスを眼にして面白そうだと足を止めて観客になる。この時点でもう途中からパフォーマンスを見ているから言わば映画を途中から見るようなものである。そして忙しい、あるいは暇な観客たちは自分で決めた時間がくれば、もしくは気まぐれにまた通行人となってその場を立ち去る。

すなわち、パフォーマンスの前・途中・後のトークをそれぞれ同じ観客が聞いているとも限らないし、楽曲演奏の場合などは本当に聴かせたい曲のときに本当に聴いてもらいたかった観客がいなくなっていることも多々ある。要はテーマとストーリー性を持ったパフォーマンスを演じても同じ観客に最初から最後まで見てもらうことは不可能に近い場合が多いという事である。

路上ライブの漫才などではオチが観客に受けない場合が多い。それはオチがつまらない場合だけではなく、オチの前フリとなる部分をその場にいなかったので聞いていなかった観客がいたりするから今ひとつオチのウケが悪いのである。路上ライブの場合、こういう観客が少しでもいると観客全体に「ウケない」雰囲気が伝染するので、そこでの仕切り直しは難しい。

おわかりとは思うが、観客も巻き込んだアーティスト主導のその場の雰囲気を作らないとパフォーマンスは生きてこない。観客に「オレたちも一緒にこのライブを制作している」という連帯感を持たせないとアーティストは最高のパフォーマンスが出来ないのである。

観客に一体感を持たせる演出はハコである劇場(ライブハウス)では出来ても路上ライブでは例外を除いてあり得ない。なぜなら、それぞれ違う目的を持って家を出てきた通行人たちがたまたま路上のパフォーマンスを見て、その短時間の間にまわりの人たちと打ち解けあい、連帯感を持つ関係に発展し、お互いにこの路上ライブを盛り上げようと言う機運が自然と生まれてくることは通常は考えられないからである。逆に路上でそんな一体感が簡単に生まれたら奇妙である。そんなのが路上にいたら、新興宗教の連中かもしれない。

もちろん例外はある。それは「・・・公園の歌姫」などと言われるアーティストが決まった場所におり、そのアーティスト目当ての観客が集まる路上や野外ライブなど街の一角に巷で有名となった音楽演奏や大道芸人たちが溶け込んでいるといった場合などであり、そういった現象はやはり漫才など他のパフォーマンスでは難しい。

ハコでは観客は入口で入場料を払って客席に着いたときから、連帯感を作る準備が出来ている。今日はステージと一体になって楽しめるライブであろうかとワクワクしている。だから、パフォーマンスの演出が上手く行けば、観客からは雰囲気作りのサポートが得られる。その雰囲気に乗ればアーティストは最高のパフォーマンスがステージ上で出来る。今ステージ上と書いたが、必ずステージがなくてはダメである。路上のように観客とアーティストが同じ目線にいてはダメである。自分たちのいる場所とは繋がっていないステージにいるアーティストを見る事で観客はアーティストの存在を有り難く思う。

やはりパフォーマンスの練習は一体感を持ってくれる人前でやるのが良い。音楽でもそうだが、特に漫才などは人前でやらないと練習にならない。人が行き交う路上や四畳半のアパート(ワンルームマンションでも同じ)では観客のウケのタイミングの勉強が出来ない。だから、アーティストは皆ライブに出ようとする。でも見知らぬところは不安だから知り合いのライブハウスに出るか、あるいは友人たちを観客として招く。そこでは気心が知れているから観客が盛り上がる。というか盛り上げてくれる。だが、これだけでは「身内ウケの域」を出ない。ライブハウスによっては出演アーティストに15枚とか20枚のチケット販売のノルマを課すから、どうしてもアーティストはチケットを友人に売る。そうするとどうしても身内で固めたライブになる。

身内を呼ぶのがいけないのではない。身内はどんどん呼んで欲しい。ただ、身内をどんどん増やして欲しい。先に、「そこに欧米のアーティストは強い」と書いたのはそこである。彼らは知らないところにも気にしないでどんどん行くから、自然と身内や仲間が増える。仲間と仲間を紹介し合う。だからファン層がどんどん厚くなっていく。こういう事を練習感覚でも良いからアーティストの皆さんがオチャマメでやってくれたら良いと思う。

路上でやっていることを路上では出来ない環境でやる。もうおわかり頂けたと思う。あらゆるジャンルのアーティストの方々とお会いできるのを楽しみにしている。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 裏方スタッフの「笑い声」


制作ルーム(制作・演出デスク)

制作・演出 松本こうどう

気になると言うか、不愉快な「笑い声」がある。

何も今始まった事ではなくかなり以前からあるのだが、ここ数年は特にヒドイ。テレビのお笑いバラエティ番組などを見ていると聞こえてくる「笑い声」である。スタジオや会場の観客の笑い声ではない。裏方である制作スタッフが出演しているタレントのパフォーマンスに反応して笑う、あの「笑い声」である。自然ではない、ひきつった声のワザとらしい、あの「笑い声」である。

この「笑い声」は今から20年以上も前に、ある深夜番組で始まった気がする。この深夜のワイドショー的な番組の司会者やタレントが話すアドリブトークの面白さについ現場のスタッフ達が笑ってしまい、その「笑い声」をマイクが拾ってしまっていたのである。

この頃の「笑い声」は当然ながら自然な笑い声であった。ひきつっていないホンモノの笑い声であった。お笑いは慣れているはずの制作のプロ達もが思わず笑ってしまうリアクションは自然で、その「笑い声」は出演者達に活力を与え、台本にはなく計算もされていない突発的な面白さが現場を包んでいる事が、画面を通じて視聴者にもわかりやすく伝わってきていた感じには好感が持てた。

ところが、ある時から撮影現場でワザと笑う制作スタッフの輩が増えてきた。ひきつった「笑い声」を連発させてタレントにアピールしているのである。もはやマイクが「笑い声」を拾っているのではない。マイクに届く様に、テレビを見ている視聴者に聞こえる様にワザと大声でウソ笑いをしているのである。

視聴者に対していかにも自分達は面白い番組作りをしていますよと言わんばかりにウソの「笑い声」を出す。「私はあなたの笑いのセンスを誰よりもわかっていますよ」と撮影現場のその場でタレントにアピールするためにワザと「笑い声」を出す。自然に笑っていないから当然ひきつった声であるが、気にせずに大声で「笑い声」を出す。そしてそれがタレントにも視聴者にもウケている、受け入れられていると勘違いしている制作スタッフが非常に多くなった。

自分達のテンションを上げるために、このウソの「笑い声」を若手スタッフ陣に暗黙のうちに強要する芸人達もいるから若手スタッフは場の雰囲気作りのためにウソの「笑い声」をするしかない。結果、「身内ウケの笑い声」は視聴者を無視していることになるのに、そのことに気がつかない。これでは視聴者をバカにしていると取られても仕方がない。

驚いたことに、この間行ったトークショー・ライブに来ていた若い観客が得意気の顔でこの「笑い声」をやっていた。裏方のスタッフではなく、観客がひきつった大声でウソ笑いをやっていたのである。周りににウケると思って、テレビで見たというか聞こえたウソの「笑い声」をマネしていたのであろうか。あるいは彼はテレビ局出入りのADで職業病なのであろうか。これはテレビの収録でスタッフがやるウソの「笑い声」とは違い、明らかにステージ上の出演者に対して失礼であり、周りの観客にとっては雑音以外の何ものでもない。

さて、オチャマメではこの「笑い声」が観客から出てくるであろうか。それとも、先手を打ってこのウソの「笑い声」をやる連中にステージに出演してもらい、ウソ笑いパフォーマンスをやってもらったら面白いかもしれない。もし面白くなかったら、こちらでウソ笑いをやってあげれば良い。

ウソ笑いにウソ笑い。これは本当に笑えるかもしれない。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 歌詞を演出する


制作ルーム(スタッフたちのデスク)

制作・演出 松本こうどう

来週から始まるオチャマメ出演希望者の審査を始めて一ヶ月近くになり、スタッフも新人アーティストの発掘に日々奮闘している。

多種多様なジャンルからの募集であるので、数々の新人アーティストのパフォーマンスを収録した宣材を見させて頂くことが非常に楽しみなことのひとつだが、やはりなるほどと考えさせられるパフォーマンスも結構多い。

しかし、これらの中には工夫と演出を加えてステージでの発表を試してみたらもっと良いのではと思われるものも多い。ここにアーティスト達にオチャマメを試しに活用してもらいたいと思うワケのひとつがある。

お笑い系ばかりでなく、感動を呼ぶようなパフォーマンスの参加も期待している。例えば、昨今のオリジナル曲を作詞・作曲する若手アーティスト達の作る歌詞。ヒットしているアーティストの影響もあるのだろうが、どこか簡素なキャッチワードみたいなコピーをつなぎ合わせたメールのメッセージのようなものばかりである。歌詞の内容そのものが、聴く者を考えさせ、感動を与えるといったことに出会うことは昭和時代の遺産になりつつある。ここで、感動的な詞を作る作詞家と流行の楽曲を作曲するアーティストとの出会いを演出してみたい。

詩ではなく詞をグランドピアノの伴奏などによりステージで朗読し、作曲が得意なアーティスト達を含む観客に発表するのも面白いと思う。ネット上での発表ではなく、ステージ上での発表はアナログ的に人の感情移入が起りやすい。これが、「聴く者を考えさせ、感動を与える」詞を作る原点に帰るキッカケのひとつになるのではないかと思う。

若手アーティスト達が年配者が作った詞に感動して、その詞に曲を作るようになったら、それは素晴らしい。ネットにアップされているような詩ではなく、誰かの寝室のナイトスタンドの引出しにそっとしまってあった日記に書かれていた詩がステージで朗読され、感動を呼び、出会ったアーティストが曲をつけ、日記の詩が歌詞となる。そんな曲を聴いてみたい。

音ありきだけの曲ではなく、詞ありきの曲にも数多くまた出会える日々を期待したい。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう