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  • 2007.07.28 Saturday
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演出ノート 「遅れている時計」と「止まった時計」


あなたの時計は本当に「正確」ですか?

制作・演出 松本こうどう

ここに1分「遅れている時計」と全く「止まっている時計」がある。さて、どちらの時計の方がより「正確」であろうか。

1分「遅れている時計」は仮に持ち主が1分遅れている事を知らないで使っていたとしても生活上の使用にほとんど影響がない。一方、全く「止まっている時計」は(骨董品や美術品としての価値がある場合を除き)全く利用価値がないから、使用可能な時計ではない。だから、人は1分「遅れている時計」を使用可能な時計として選ぶ。そして、人は1分「遅れている時計」の方がより「正確」と思う。これは「正しい」判断である。

だが「正確にはどちらがより正確か」という問題になってくると実は話は別である。そう、「正確」が常に「正しい」ということでない場合の話である。

1分「遅れている時計」は1分遅れて針が進んでいる以上、1日24時間中に「正確」な時刻を針が指す事は一度もない。すなわち、「正確」な時は絶対にない時計である。しかし、「止まった時計」は違う。

仮に3時を指して止まっているアナログ時計があった場合、1日に3時は2回あるから、この「止まった時計」の針は1日に2回は必ず「正確」な時刻を指していることになる。すなわち、「正確」な時が必ずある時計である。だから、1分「遅れている時計」と「止まった時計」のどちらがより「正確」かというと、答えは「止まった時計」という事になる。理論上はそういうことになる。(実際には現実の時間に「止まった時計」の針が指す時刻があるというだけなのだが)

理論上はそうであっても、日常の生活には「止まった時計」は全く使えない。いくら1日に2回も「正確」な時を刻んでいるとは言っても、いつがその「正確」な時であるのかが分からないから、結局は全然使いものにならない。「正確」であっても「正確」な時が「正確」に分からない。「正しければ良いってもんじゃない」というのはこういう場合に言うセリフである。(この場合の「正しければ」は、実はこういう「正しい」鎧を着た「間違っている事」を指しているのである)

だが、実社会ではこの「止まった時計」の理論でものごとが運用されている場合が多い。いくら全体的におかしくても、その中の「正確」な部分だけに目を向けて「止まった時計」と「遅れている時計」の話のごときに、こちらの方が「正確」であるということにされてしまう。銀行や役所、公的団体、学校関係者などには、いまだにこういった理論展開で話を進めている社員や職員の人たちがいる。カネ儲けだけがいかに正しいかを「勝ち組」と「負け組」の形容で理論展開してきた連中もそれを支持したメディアも同じである。

誰しも経験があると思うが、「正確」だけを基準に事を進め、現実に合わなくても「これが正しい」と「止まった時計」もどきの理論を利用して「本来はこうだ」と言われると反論のしようがない。どう考えても庶民の実社会には合わない理論展開であるのに、この理論の主張側にとってはそれが「正論」ということになっている。事実「正論」である。しかし、本当は「正しい」鎧を着た「間違った正論」である。そう、本当はそれは「止まった時計」である。

おわかりとは思うが、実社会では庶民は「遅れている時計」の感覚で物事を進めている。実社会には全く「正確」な事などあり得ないはずである。絶対に正しい事などあり得ないはずである。だが、間違えてはいない。「止まった時計」の理論に比べるとより「正確」ではないかも知れないが、大きな流れではより「正しい」選択をしている。これが「正しい」現実感覚である。

それに気づかずに、「止まった時計」の方が「正確」であるとするから、庶民感覚を無視してカネがすべてに優先する考えがまかり通る。銀行も学校も病院も役所も公然と弱者排除を行う。だが、忘れてはいけない。いくら「止まった時計」はより「正確」であっても本当は全く利用価値がない。そう、今の日本の銀行や学校、病院、役所などと同じである。いまだに彼らの「時計」は「止まっている」のである。

役者が役作りで何かになりきる。その仕事をした事がなくてもその職業人らしく演じる。演出家もこうしたら良いと演技の方向性を示す。こうやって出来上がる「役」を見て良く「微妙にホンモノと違う」とか「正確」ではないと指摘をされることがある。なるほど、全体的に役作りの方向性は合っていても「遅れている時計」と同じで「正確」ではないのかも知れない。

例えば、ドラマなんかで「あんな刑事や医者は現実にはいない」なんて場合がある。しかし、その役どころの「刑事」や「医者」はドラマでは人気だったりする。一方、現実の警察や病院には人気どころか問題のある「刑事や医者」がたくさんいる。考えても見て頂きたい。子どもたちに夢を与えるのはこういうドラマの中の現実にはいない、「正確」ではない「刑事や医者」たちである。これもまた先と同じ「正しければ良いってもんじゃない」ということである。

物語はいつも現実をモデルに描写しているとは限らない。庶民感覚の理想をモデルとして描いている場合も多い。作家や演出家は現実の「止まっている時計」をせめて物語の中では少なくても「遅れている時計」くらいには変えたいのである。

実社会でも物語でも「コレって違うんじゃないの」と思ったときには、ぜひとも「遅れている時計」と「止まっている時計」の話を思い出してみてほしい。

そして、何が「正確」かではなく、何が本当に「正しい」かを判断してほしい。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 「打ち上げ」が本番

オフイス風景 1
制作ルーム やはり企画は難しい・・・

制作・演出 松本こうどう

打ち上げと言ってもロケットの打ち上げではない。イベントの「打ち上げ」である。

イベント終了後に制作に携わった裏方がお互いの労をねぎらうために開くパーティである。もちろん、出演者も参加する場合もあり、彼らと裏方、業界関係者との懇親会的な役割もある。

最近、この「打ち上げ」で気になることがある。本番の制作よりも「打ち上げ」が本番のごときに、その「打ち上げ」だけで盛り上がる輩が多くなってきたことである。何も酒を飲んでバカ騒ぎをすると言った話ではない。「打ち上げ」の準備と開催に本番の制作や運営よりも力を入れて本末転倒であると言ったことでもない。では何かと言うと、制作準備や本番には力を入れていたわけでもないのに、「打ち上げ」の席ではあたかも自分たちがイベントで大変な努力をしてきた真の功労者であるかのように、その場で話を盛り上げてしまう連中がいる事である。これは若者より年配者にその傾向が強い。

「打ち上げ」ではお客様やスポンサー関係者は立てなくてはならない。当たり前のことだから、それは良い。問題なのは他の制作スタッフの苦労と努力を「打ち上げ」の場で自分たちの功績にすり替える錬金術師たちである。

大きなイベントの場合などでは200人近い大勢のスタッフが一同に集まって「打ち上げ」が行なわれる。みんな担当も部署も違い、制作過程では顔も知らないスタッフ同士が「打ち上げ」で集まる。お互いの事情を知らない者たちの集まりである。こういう場では錬金術師が現れる。

「打ち上げ」の場では、制作の準備段階から一生懸命にやってきて、当日も多忙であった担当部署のスタッフほど意外と静かである。ちょうど燃え尽きたあとの花火の残り火のように充実感のあとの余韻にひたっている。「打ち上げ」は充分に楽しんでいる。だが、何もバカ騒ぎしなくても充分に嬉しい。これが真に仕事をした者の姿かも知れない。

それに比べて、制作準備段階では他の予定を優先してあまり力を入れてなかったり、手を抜いて当日もあまり活躍する場がなかったりしたスタッフは、せめて「打ち上げ」の場での充実感だけでも味わおうとする。仕事で燃え尽きていないから、その場のサボった仲間の「連帯感」でまとまろうとし、彼らにとって「打ち上げ」がイベントの「メインイベント」となる。仕事で手を抜いた分、「打ち上げ」では生き生きとする。

そんなときには必ずそれらの「連帯感」をまとめる仕切り役も登場する。大抵の「仕切り役」はちょっと年配者である。制作準備段階の会議には適当にしか参加していなかったはずの中間管理職クラスの人がお客様やスポンサー関係者を前にした「打ち上げ」では突然にそのイベントの「仕切り役」になる。会議では無責任な発言と態度しか見せなかった人が、いつの間にか責任感の強い陰の立役者になっている。

「仕切り役」はイベントの功労者を褒め称えて主役として立てつつも、実は自分のペースで(司会者でもないのに)勝手に会を進行させて、イベント本番ではなかったはずの自分の居場所を「打ち上げ」の場を利用して作り上げる。あたかも皆の知らないところでは自分は重要な位置に存在していたかのようにふるまう。知ったかぶりで、イベントに欠点があったと論評する。

しかし、実際には制作の肝心な部分には関係していないから、知らないことやわからないことが多い。そこで、いろいろとバレる前に先の「連帯感」を利用する。この「連帯感」の持ち主は若者たちが構成員である。彼らはイベント制作では手を抜いていたがお祭は大好きである。本番では出番がなかったが、「打ち上げ」では充実感を得たいと思っている。自分たちも盛り上がりたいと思っている。こんなときに自分たちの思いを「打ち上げ」の場で酌んでくれる「仕切り役」はありがたい。ここで彼らの足並みが揃う。イベント制作中にはあり得なかったチームワークである。

「仕切り役」はイベントの功労者や主役陣の挨拶がひと通り終わったところで自らの演出に入る。まずは自分の過去の話で、自分にはいかにスゴい活躍があったかを皆の前でさり気なく、だがしっかりと述べる。そのイベントとは全く関係ない話だが、まわりの反応を気にしないで自分のペースを作り始める。まわりもその雰囲気にのまれる。そこから、あたかも自分は影の功労者にも目を向けているとばかりに件の「連帯感」をうまく取り入れる。

「仕切り役」は司会者も仕切り始める。「連帯感」構成員にマイクを持たせて、あたかも彼らが影の功労者であったかのように報告をさせる。彼らも喜んで報告を始める。意味のない報告だが、「連帯感」構成員たちで盛り上がる。彼らのイベントの始まりである。「仕切り役」はいちいち報告に感激のコメントをつける。あたかも影で自分が動いていたかの様に締めくくる。

そしてここが肝心なのだが、本当のイベントの功労者や主役陣に対して、「君達も良くがんばってくれた」と称える。別に自分は管理ポジッションにいるわけでもないのに「良くやってくれた」と称える。誰もが認める真の功労者を称えることによって、イベントにおける自分の超越した立場を勝手に作り、「打ち上げ」における自分の居場所を確実なものにする。功労者たちが、苦笑いをしながら賞賛を受けたときにはもう「仕切り役」の術にはまっている。

「打ち上げ」参加者の意識には、このイベントは皆でがんばった、やはり・・・さん(仕切り役)がいないと事はまとまらないとインプットされる。こうして彼らの「打ち上げ」イベントは盛況のうちに幕を閉じる。これは「打ち上げ」ジャックによるイベント功労の横取りである。

もしかすると「打ち上げ」というのは本来こういう輩のためにあるのかも知れない。そもそも「打ち上げ」とい名称がヘンである。スペースシャトルは「打ち上げ」で飛行というイベントが始まるが、決して帰還後に「打ち上げ」というプロセスはない。だから、イベントの始まりのパーティである前夜祭が「打ち上げ」と言うならわかるが、そうではなくイベントの終わりのパーティが「打ち上げ」と言うのは何故なのか。

やはり、イベント中に燃えずに打ち上がらなかった連中のために、イベント終了後に「打ち上げ」があるのかも知れない。そして「打ち上げ」で連中は確実に燃え上がる。打ち上がる。最後に打ち上がって勝つために、「打ち上げ」は彼らが考案したイベントであった。

「打ち上げ」で初めて打ち上がる連中はどこの会社にもいる。「打ち上げ」の意味がわかった気がした。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 「きつね」と「たぬき」はややこしい


これは「きつねそば」か、それとも「たぬき」か・・・

制作・演出 松本こうどう

番組収録前にロケハンと言って撮影候補地を下見する。

そんなときに何気なく入った昼メシの店がおもしろく、あとで番組取材を入れたという事もある。そんな取材中の昼時に入った大阪のうどん屋で、私は忘れられない体験をした。

関東では「うどん」や「そば」を出す店を「そば屋」というが、関西では「うどん屋」と言う。ここからして関東と関西では「うどん」や「そば」の文化が違う。東京人は東京の「そば屋」には「うどん」もあると知っているが、関西に行って「うどん屋」と聞くと「そば」はないのかと思う。東京で「うどん屋」と言うと「うどん」専門店のことだからである。

関東と関西での「そば屋」と「うどん屋」は、呼び方の違いだけと理解できるが、次に述べる「きつね」と「たぬき」のことは、私は全く考えもつかなかった。

関東では「きつね」というのは「油揚げ」が上にのっているものを言う。そして「たぬき」というのは「あげ玉」が上にのっているものを言う。従って「きつね」も「たぬき」も「そば」の場合と「うどん」の場合がある。「きつねそば」や「たぬきうどん」と言ったものである。

しかし、関西では「きつね」は「油揚げ」が上にのった「うどん」のことを言い、そして「たぬき」は「油揚げ」が上にのった「そば」のことを言うのだそうだ。(「きつね」と「たぬき」の関係において、「油揚げ」だけが登場し「あげ玉」は出てこない) 「きつね」は常に「うどん」であり、「たぬき」は常に「そば」である。従って「きつねそば」や「たぬきうどん」はあり得ない。

関東と関西では、「きつね」と「たぬき」は同じ名称でありながら、意味だけでなく意味合いのコンセプトがまるで違う。私は関西でのこの「きつね」と「たぬき」の意味を知らなかった。

ちなみにこのことを知った後に、では「あげ玉」がのった「うどん」や「そば」は関西では何と言うのか大阪の人に聞いた。東京で言う「たぬきうどん」と「たぬきそば」である。大阪では「あげ玉」は店のカウンターにおいてあってタダで「うどん」や「そば」にかけるものだから、そういうものには特に名称がないと言われた。なるほど、七味をかけた「うどん」や「そば」には名称がないのと同じである。

さて大阪のある暑い日に、私は取材の合間の昼メシを食べる店を探していた。ある「うどん屋」の店先に「油揚げがのったうどん」に茶碗のご飯がついている本日の日替わりランチ定食の見本が置いてあった。要は「きつねうどん」とご飯の定食である。これも関西風である。関東では「うどん」をおかずにご飯を食べる風習はない。(多分であるが)

急いでいた私はコレに決めて店内に入った。店内には割ぽう着を着た小太りの愛想の良いおばちゃんがいた。私はここで生涯忘れられない体験をすることになる。その体験とは、このおばちゃんとテーブルについた私との会話であった。それはまさしく「きつね」と「たぬき」の化かし合いのような会話であった。以下にその様子をドキュメンタリータッチで再現する。関東と関西の「食の名称文化」の違いを浮き彫りにした貴重な会話の記録である。

おばちゃん:
何にしますぅ?

私:
外にある日替わりランチ。(店頭の「きつねうどん」を頭に思い浮かべる私)

おばちゃん:
あいよ。

私:
でも「きつね」じゃなくて「たぬき」に変えてもらえる?(私は「油揚げ」より「あげ玉」の方が好きなので頼んでみた)

おばちゃん:
いいんやけど、もう「そば」ないで。今日全部出ちゃったわ。(私は「あげ玉」がのっていれば「そば」でなくても「うどん」でも良いが、「そば」に変えろと言ったわけでもないのにヘンな事言うなと思う)

私:
「うどん」でいいよ。

おばちゃん:
ほな、「きつね」な。

私:
いや、「たぬき」がいい。(私は「うどん」に「あげ玉」がのった「たぬきうどん」を意味していた)

おばちゃん:
だから、「そば」もうないって。

私:
うん、だから「うどん」でいいって。

おばちゃん:
ほな、「きつね」やろ。

私:
いやいや、「たぬき」がいいんだけど。

おばちゃん:
だから、「そば」ないって言っとるやん。

私:
だから「うどん」でええって言っとるやん。(なぜか、私も大阪弁になる)

おばちゃん:
ほなら、「きつね」でええんやな。

私:
「きつね」じゃなくて「たぬき」がええんや。「うどん」でええから。「たぬきうどん」や。

おばちゃん:
アンタ言っとんの、それ「きつね」やんか。

私:
違う。誰も「きつね」なんて言っとらへん。「たぬき」や言うとるやん。「油揚げ」じゃなくて「あげ玉」がええんや。「うどん」でええから。(なぜか、ずっと大阪弁の私)

おばちゃん:
(ちょっと間をおいて)・・・「うどん」に「あげ玉」がのったんでええんかい?

私:
そや。それや。

おばちゃん:
そなら、最初からそう言いはったらええのに。

私:
・・・(状況がわからなくなっていた)

おばちゃん:
(カウンター越しに厨房に向かって)日替わりの「きつね」に「あげ玉」ものせたって。

私:
・・・(状況はわからないが、「あげ玉」がのってくるならいいかと思う私)

やはり出てきた「たぬき」というか、そうではなく「きつね」には「油揚げ」と一緒に「あげ玉」がのっていた。

状況はご理解頂けたであろうか。はっきり言って、おばちゃんも私も正しい。そしておばちゃんにとっても私にとっても、まさに「きつねにつままれる」感じの「きつね」談議であった。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 「思わず笑ってしまう」面白いヤツ


そこら辺を歩いている人が結構面白かったりする・・・

制作・演出 松本こうどう

学生などのシロウト制作のコントビデオを観て思った。

ショートコントなどのお笑い映像に脇役で出ている若者たちに面白そうなのがいる。彼らや彼女らは自分達だけでは漫才やコントなどのステージに上がったり、テレビに出てやってみると言ったタイプではないそうである。

あくまでも脇役で他の芸人のサポートとして面白いことをやっている。だが、ビデオの中では自然と笑いの主役を演じている。それがビデオの中にさり気なく写っている。思わず笑ってしまう。これだと思った。

番組やイベントなんかで面白いヤツを募集しても、こちらが探している逸材が中々集まらないことが多い。自分で笑いを取りたくて応募してくる新人芸人は、やる気や気力は充分にある。根性もあり、テンションも高いから少々つまらないネタでも結構ウケたりする。だが、それだけでは日常にある笑いのツボとは違うから、「思わず笑ってしまう」という事がない。そういう笑いにはあまり出会わない。

だが、思わず笑ってしまう芸というのは意外なところにあるようだ。例えば、ビデオの中で主役の芸人が交差点の信号待ちで何かヘンな事をやっている。それを通行人役の脇役が何のリアクションもなしで日常的な顔で無視している。見えているのだが、あくまでも普通の顔で「無視して」見ている。この一瞬のツボが面白い。通行人役がヘンな顔をしたり、大げさなリアクションをするよりかずっと面白い。

これは主役のネタで脇役の演技が笑いを取っている瞬間である。思わず笑ってしまう瞬間である。これは主役のネタが面白くなければ面白くないほどウケる瞬間の芸でもある。

こういう笑いの脇役をやれる芸人?は舞台の主役ではないから自分達からは出てこない。自分だけで笑いを取るタイプではない。だけど笑いには必要な要素を持った面白いヤツである。こういう面白いヤツをオチャマメでもいっぱい見てみたいが、中々出てきてくれない。

そこで思うのだが、こういう思わず笑ってします面白いヤツが脇役として登場するビデオを主役の芸人と一緒に作り、オチャマメで上映してみてはいかがだろうか。ステージに上がるのはイヤでもビデオなら出ても良いという面白いヤツをオチャマメではたくさん紹介したい。ステージに上がる根性などはいらない。ビデオに出て「思わす笑ってしまう」笑いを取るセンスがあれば良い。

実はこの方法をこの間のオチャマメで試してみた。出演の漫才の二人が脇役たちと作ったビデオを上映したすぐあとに主役の漫才ライブをやった。残念なことに観客の少ない公演日だったが場内のウケは良かった。

主役もライブとしてオチャマメに出演せずに、作ったビデオの上映だけでも良い。ビデオ上映だけで良いから、是非とも多彩な「面白いヤツ」の「思わす笑ってしまう」笑いを見せてもらいたい。

「思わず笑ってしまう面白いヤツ」に期待している。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 芸をやらないシャチは頭が良い?


シャチは頭が良い その理由は・・・

制作・演出 松本こうどう

アメリカと日本の水族館の関係者たちに取材をしたことがある。その時にシャチについてちょっと考えさせられたことがある。

日本の水族館やシーワールドなどでもシャチの芸がショーで見られる。この芸をやるシャチは高いお金を払って外国から買ってくる。外国から来たシャチを日本の水族館やシーワールドなどが飼育をしながら芸を仕込む。ある水族館の館長から聞いた話であるが、このシャチには当たり外れがあるそうだ。すぐに芸を覚える頭の良いシャチと全然芸を覚えない頭の悪いシャチがいるとのことである。

なるほど、ショーで良く芸をするシャチはとても頭が良く見える。子どもたちの人気の的であり、事実頭が良いのだと思う。では、芸を覚えないシャチは本当に頭が悪いのであろうか。芸をするシャチに比べてやはり能力が低いのであろうか。

アシカやイルカのショーの芸でも同じだが、シャチの芸ではひとつの芸が終わるたびに係りのきれいな (でない場合もある) おねえさん (おじさんの時もある) が必ずシャチにエサを与えている。頭の良いシャチはちゃんと芸を覚えて、ショーで芸をすればエサがもらえる事がわかっている。すなわち、シャチはエサがもらえるから芸をするのである。それでは芸を覚えないシャチにはこの事がわからないのであろうか。

シャチは頭が良い。一説によればシャチの知能指数は人間並みかそれ以上とのことである。そんなシャチである。芸の良し悪しだけで頭の良し悪しを決め付けるわけにはいかない。普通に考えても、たかが人間が教える芸をそんなに頭の良いシャチが覚えられないわけがない。では何故、芸を覚えないシャチがいるのであろうか。

実はというか私が思うに、この芸を覚えないシャチはもっと頭が良く、もっと深いところまでわかっている様な気がする。つまり、「芸を覚えない」のではなく、「芸をやらない」のではないかと。

水族館であろうと、シーワールドであろうと、シャチを飼育している以上は芸をやらないからといってエサを与えずに飢え死にさせるはずがない。芸を覚えなくてエサがもらえずにシャチが餓死する。もしそんなことが起ったら動物愛護団体のみならず世間一般からも大非難を浴びて大きな社会問題となる。新聞や週刊誌に書きたてられて、館長はテレビのワイドショーにつきあげられる。だから、芸をやるやらないにかかわらず、シャチには平等にエサを与えなくてはならない。どのシャチにも待遇は平等にしなくてはいけない。

「芸をやらない」シャチにはこの事が良くわかっているのである。芸など覚えなくても結局はちゃんとメシが食える事がわかっている。芸などやらなくても待遇はちっとも変わらない事がわかっている。だから、芸など覚える気などサラサラない。

だが、「芸をやる」シャチはエサをもらおうと思って必死になって芸を覚える。一方、「芸をやらない」シャチはそんなムダな努力はしない。芸をしなくてもエサの時間がくればちゃんと食える。これが厳しい自然界とは違う水族館やシーワールドのあたたかさである。人間界はシャチにとって決して厳しい世界ではない。

この人間からのあたたかい待遇がわかっているシャチは、やはり人間よりか頭が良い。

この事をある公共団体の長に話したら、「うちの職員にも、その芸をやらないシャチみたいに働かないで給料はちゃんともらっているのがいる」と言っていた。

人間にもシャチ並みに頭が良いのがいる。だが、こちらはシャチとは違って問題である。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 空飛ぶ円盤「UFO」なんか呼ぶな!


もし、あなたが空飛ぶ円盤に遭遇したら・・・

制作・演出 松本こうどう

最近ではバラエティ番組のコーナーでしかあまり見ないUFOと言われた空飛ぶ円盤の写真や撮影されたビデオ。

昔は2時間のスペシャル番組でドキュメンタリータッチで良く放映されていたが、最近では「空飛ぶ円盤」という呼び方自体も古い感じがする。

もちろん、ホンモノのUFOと言うか空飛ぶ円盤が他の惑星から地球上にやって来ているのかどうかはわからない。宇宙人が本当にいるのかどうかもわからない。でも「宇宙人は存在する」という想定というか前提のもとに構成された番組は数多くあった。

そのひとつに「テレパシーでUFOを呼ぶ」というのがあった。「UFOコンタクティ」とか呼ばれる超能力者(もうこの呼び方も古い感じがする)の青年(見た目はオジサン風)が富士山のふもとなどで生中継のテレビカメラが見守る中、念力(多分)でテレパシーを宇宙に向かって送り、「UFOに同乗中(搭乗中が正しいと思うが何故か当時のテレパシー青年はこう言っていた)の宇宙人の方、どうかその存在が私たちにわかる様にはっきりとその姿を私たちの前に現してください」と何度も呼びかける。

すると空に怪しい光が突然に現れ、見る見るうちに銀色に光った謎の飛行物体が近づいてくる・・・なんて事はなく、大抵は2時間の放映中には何も起らないか、星か人工衛星をテレビカメラが捉えて、もしやUFOかと騒いで終わっていた。番組中に空飛ぶ円盤が出現したことはなかった。無論、このテレパシー青年に本当に超能力があったかどうかも未だにわかっていない。テレパシーそのものの真意のほどもわかっていない。

当時の番組制作側は空飛ぶ円盤の出現をあまり期待していなかったと思うが、視聴者は、もしや本当にUFOが現れたらどうしようかとワクワクして観ていた。だが、近年は人々の頭の中から「UFOの存在」は忘れ去られてきているように思う。いつまでたってもホンモノの空飛ぶ円盤がこの地球上に現れないから無理もないことである。

あの頃に比べて今は科学が進歩しているから、もしかするとテレパシーを本当に宇宙に送れるかも知れない。宇宙人も本当にいるかも知れない。だから、もう一度テレパシー青年たちに宇宙に向かって呼びかけてもらったら、あの当時はダメだった円盤や宇宙人に今度は会えるかも知れない。だが、こういう事はやめた方が良い。

例えば、今から何十年か何百年かして、この地球上に自家用宇宙船を個人が自由に持てる時代が来たとする。(こういうのは近年、本当にありそうである) そしてあなたは今、仕事中か、恋人とデート中か、あるいはひとりで買い物に行く途中か何かで、宇宙船で宇宙空間をドライブしていたとしよう。

そのとき急に、どこか遠い宇宙の惑星から、「あなたの存在と宇宙船を見せてほしい」とのテレパシーが入ったとする。もちろん、その惑星もテレパシーの送り主もあなたは知らない。メル友でもないヤツからのテレパシーである。果たしてあなたはワザワザその惑星まで回り道をして行くだろうか。メールだけでしか知らない相手に会うのも危険なのに、ましてや知らない惑星からのテレパシーだけでホイホイと会いに行くであろうか。大抵のまともな人は忙しい中、そんな危険なことはしない。

それと同じで今の時代に、いくら地球上から宇宙人に対してテレパシーを送ってもUFOなど来るはずがない。空飛ぶ円盤に乗っている宇宙人も忙しいだろうから、そんなテレパシーの呼びかけに応じるはずがない。普通は宇宙人もテレパシーだけであなたを簡単に信用するはずがない。

だが、もしあなたのテレパシーの呼びかけにUFOが来るとしたら、どんな場合であろうか。

地球の知りもしないヤツからのテレパシーを受けて、よし地球に行ってUFOを見せてやろうなどと思い、実際にやってくるもの好きな宇宙人は、地球上で言えば一日中ネットサーフィンをして出会い系サイトを漁るナンパ目的か悪さを考えるヒマなヤツか、あるいは身元もわからない「オレオレ詐欺」か「振り込め詐欺」をやるような危険なヤツである可能性が高い。言うなれば不良宇宙人である。

こういう輩はワザワザ地球に来て「UFOを見せて」終わりにするはずがない。そのあと絶対に何かしようとするに決まっている。メールと同じでテレパシーでも、身元がわからない相手に気軽に「会いたい」と言うとどんな危険なヤツに出会うかわからない。

ヘタにテレパシーを送ってこういう不良宇宙人が大挙して地球に来たら大変である。宇宙の不良どもにワザワザ地球を教えてやる必要はない。メールの次はテレパシーにも気をつけた方が良い。

因みに当時の「超能力者」たちは現在、「霊能力者」をやっている。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 欧米式「飛び入りオーディション」


フロリダのライブ・ステージはおもしろい

制作・演出 松本こうどう

アメリカはフロリダ州西海岸ビーチ沿いのリーゾート地。

ヤンキースの松井選手がキャンプに訪れるタンパから西に車で40分。南北に60キロ以上も続く白い砂浜に、有名ホテルとレストランが軒を連ねるこの地はアメリカ人に最も人気の高い観光地のひとつである。

一年中眩しいほどの太陽が降り注ぐビーチに建つホテルのプールサイドでは飲食が楽しめる。プールサイドにはビーチ・バーが必ずあり、ステージとなるコーナーがある。ホテルの中にはラウンジがあり、照明とステージが設けられている。そこで、昼間から数多くのバンドがカリビアンからロックまであらゆるジャンルの生演奏を披露している。マジシャンやコメディアンも登場してくる。昼間からカクテルや生ビールを飲みながら気軽にショーが楽しめる。サンセットの頃にはまた違うバンドが出演して演奏は深夜まで続く。

ホテルや同じくビーチにあるライブハウスに時折、楽器や小道具を手に行列をしている人たちがいる。「飛び入りオーディション」の出番を待っているアーティストたちである。建物の中のラウンジに入ると公開オーディションが行なわれている。

オーディションがある日は、アーティストたちは列に並ぶ。順番が来れば必ず出場できる。入口でエントリー・フィーを払い、ステージに上がる。演目は楽器演奏であろうとコメディであろうと何でも良い。5分や10分など与えられた持ち時間内でパフォーマンスを披露する。前の方のテーブル席には審査をするマネージャーの太ったおばさんがどっかりと座っている。

客も入っている。観光客だけでなく、新人アーティストの演目を楽しみにしている地元の常連客である年配者たちも多い。フロリダにはリタイアして他州から移ってきた金持ちの老人たちが多い。この老人たちがこれらの新人アーティストたちのタニマチとなり、CDデビューなどをサポートする場合もある。

さて、このオーディションに合格すると、というか審査のおばちゃん (おじさんの場合もある) の目にかなうとそのホテルやライブハウスの次の週の昼間のステージに出られる。そのステージが好評だとまた出られる。これが続くと夜のディナーショーのステージに上がれる。

夜のステージが人気だと、ひいきのファンもつく。地元のDJがラジオで紹介する。地元テレビの番組出演依頼が来る。地元のテレビやラジオでヒットすると他州のラジオ局でも紹介される。雑誌に載る。こうなってくると、メジャーデビューが見えてくる。「ダウンタウンDX」等のヒット番組を手がける放送作家の倉本美津留さんによるとロンドンでも同じような「飛び入りオーディション」みたいなものがあり、倉本さんも50ポンドとか払って出場したことがあるそうだ。

この「飛び入りオーディション」は新人アーティストのチャンスの場である。ショーとしてもおもしろい。だが、日本ではまだ聞いたことがない。だからオチャマメでやって見ることにした。

出場してもらう新人の演目はオチャマメの主旨通り、お笑い、歌、各種パフォーマンス、音楽演奏等、何でもありでジャンルは不問。欧米式に列に並んで若干のエントリー・フィー(通常のオチャマメ出演はエントリー・フィーなし)さえ払えば誰でも出場できる。月に1回、お昼に開催する。賛同して頂いた放送作家の倉本美津留さんと私、そして大手広告代理店のプロデューサーなどで審査員をやる。ちょっとでも気になるアーティストは毎週火曜のオチャマメに出演してもらう。そこでおもしろかったら、オチャマメでパフォーマンスの実績を積んでもらい、テレビ等に出演してもらうチャンスを作る新人発掘である。

さっそく来月から始めたい。代官山から欧米に負けない文化を発祥したい。というか「おもろいヤツ」を数多く見つけたい。「おもろいヤツ」は列に並んでほしい。みんなで観に来てほしい。

もちろん、リタイアした団塊の世代の人たちにも観に来てもらいたい。

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 あるテレビ局のバイトの子


海外との交渉はいつも24時間体制

制作・演出 松本こうどう

ある地方大都市のテレビ局にデスクワークのバイトの女の子がいた。

確か21歳であった。バイトと言ってもフリーターみたいな感じではなく、東京で短大を卒業してその地方の実家に戻り、親のコネでテレビ局で働いているチョットしたお嬢さんである。

だから、一応に常識もあり礼儀正しい。容姿も悪くない。素行も悪くない。何も特段の問題もない子である。だけど、やはりネットとメールの時代に育った世代の子である。知らないモノを扱う時の発想が我々の想像の域を超えていておもしろい。

知らないモノと言ってもファックスのことである。彼女はファックスを見たことはあっても使ったことがない。ファックスがどういうものか良くわかっていない。ファックスは紙に書いたものを相手のファックスに送信する機械だと知っていても、「送信」の意味が良くわかっていない。

我々の世代では、ダイヤル回線の黒電話から始まり、デジタル回線のプシュホンを経て携帯電話というものを経験してきている。ビジネスではその過程でテレックスが主流であった時代からファックスが登場する時代に移行している。そしてそのファックスはやがてどこの家庭にも置かれるようになった。

だが、時代は急速に変化する。今はどこの家庭にもインターネットが入り込み、ネットの添付であらゆる書類が送信できるため、今度はファックスは家庭から姿を消しつつある。でもビジネスでは相変わらずにファックスも現役である。テレビ関係の仕事でも企画提案書や台本などは相手先にはファックスで送る場合が多い。

彼女はそんなワケで家では使ったことがないファックスをテレビ局で初めて使うことになる。別に大したことではない。初めてインターネットを使うよりよっぽど簡単なことである。だが、彼女にとっては違う。ファックスの使い方は簡単でも、どうして紙に書いたものが相手側に送信されるのか良くわからなかったらしい。

携帯電話世代の若者は「線のついていない電話」を「電話」として普通に受け入れる。しかし、我々の世代では「電話」と言えば必ず「線」がついているもので、携帯電話みたいなものは「電話」ではなく、無線機と呼んだ。だからファックス通信と言えば、紙上に書かれた内容が信号化されて電話回線を通して相手のファックス機械に送られ、信号化された内容を受信した相手のファックス機械がそれを解読して紙上に印刷するというのは何となくわかる。そして携帯電話に接続されるファックスなどではそれが「回線」ではなく、「電波」を使って行なわれるのだと。

しかし、最初から携帯電話のメールや光ファイバー通信のイメージで「送信」というものをとらえている世代にはこのプロセスは理解し難いようだ。ネットのメール送信のように、画面上だけの「送信」を体験している彼女には「紙」が「送信」されるという現象を画面上の「送信」と同じ様に思ったらしい。インターネットでメールを送信すると、送信された瞬間に画面上から消えて送信済となる。あの画面上から「消える送信」が彼女にとっては「送信」のすべてである。だから、彼女にとっては「消えない」と「送信済」ではない。

ある日、彼女の上司が支局にファックスを送るように彼女に頼んだ。人の良いこの上司は丁寧に彼女にファックスの使い方を説明する。送信する紙のセットの仕方から相手番号の入れ方、そして最後に「送信ボタンを押すと送信完了」と教えた。さすがにネット世代の子である。団塊の世代とは違って、「機械」の使い方の呑み込みが早い彼女はすべてを理解した。ただし、「送信」の意味以外はである。

早速ファックスを送る彼女。だが、どういうわけか何度も同じ事を試している。相手に通じないのか何度も送信を試みている。時折、自分のデスクから心配そうに目をやる上司。そのうち相手先の支局からこの上司に電話がかかって来た。

支局からの電話は、なかなかファックスが来ないという苦情ではなかった。何と、何枚も同じファックスが送られ続けているという苦情であった。びっくりして彼女に駆け寄り、「何やってんの?」と聞いた上司に彼女は困った顔で答えた。「すみませ〜ん。何度入れても紙が反対側から出てきちゃうんです」

彼女は「紙」そのものが回線を通って相手側に「送信」されるとでも思っていたのであろうか。やはり彼女にとっては「紙」が「消えない」と「送信済」ではなかった。上司は呆れたが、「最後に送信ボタンを押すと送信完了」とだけ教わった彼女にしてみれば、当然の発想であった。

この彼女、上司から更なるレクチャーを受け、ようやくファックスの「送信」を理解したと思われた。だがその後、相手先に閲覧後に他への転送を頼むファックスを送ったときに、相手側の分と転送用の分として同じ原稿を2枚送信したというから、やはり彼女にとってはファックスの「送信」は難しいようだ。

これを見た件の上司は、「彼女はどうやら応用問題は苦手らしい」と言っていた。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 実話の「怪談」


今夜も制作作業で朝までデスクワーク

制作・演出 松本こうどう

視聴者や読者から投稿された実話怪談の本が流行っている。この夏も、どこのコンビニの書籍コーナーにもこれらの「怖い話」の本がところ狭しと置かれていた。

著者が有名な作家やライターであってもそのほとんどが一般の人が投稿した「恐怖の体験実話」をそのまま紹介している話である。各話のはじめには投稿者の氏名(もしくはイニシャル)、年齢、職業、性別が書かれている。

だが、本の冒頭には必ず「恐怖体験談の人名、団体名などはプライバシーを考慮し、すべて仮名です」と書かれている。だから各話のはじめの「氏名」は仮名である。また「周囲の方に著しくご迷惑をおかけする恐れがあるため(実際の)地名の掲載は致しません」というのもある。そして巻末には必ず「あなたの体験談をお寄せ下さい」とある。

なるほど、一般の人からテレビやラジオ、出版社に実話の恐怖体験談の応募が多数あるのかも知れない。それをもとに本が出版されている。だが、地名は秘密(あるいは県名や市名だけの記述)、出てくる団体名は架空、体験した日時の詳細は記述なし、そして体験者の名前は仮名。これでどうして読者はホンモノの心霊恐怖体験実話と信じられるのかと疑問に思う。

ゴーストライターの事を「怪談を書く人」という意味と勘違いしていた人がいたが、もしかしたら、実話体験者に成りすました、そういう意味の「ゴーストライター」がいるのかも知れない。

何も本に書かれている恐怖の体験実話がすべてウソっぱちと言っているのではない。ただ、あらゆる体験実話を検証して見た結果、日本には「心霊実話」が多すぎると思うのと、多数の出版社の本に全国の違う地方から違う投稿者名(違う仮名)で寄せられた似たような、というかほとんど同じ「実話」の恐怖体験談が多数載せられていることが不思議でならない。果たしてこれらはホントの「実話」なのであろうかと疑問に思う。

エンターテインメントとしての怪談小説ならいざ知らず、「実話」と謳っている「怖い話」の本が創作であっては、看板に偽りありになってしまう。「事実」でないことは作り話であって「実話」ではない。だとすると「実話体験談」と書いてある本には、ちゃんと「事実に基づいた実話」が書いてあるのであろうか。「実話」ならホントに幽霊はいるのであろうか。

本が本当に実在する投稿者から寄せられた心霊体験を載せていたとしても、それはすぐにホントの心霊体験「実話」とはならない。ホントに「幽霊は実在する」とはならない。投稿者が送った「作り話」かもしれないからだ。(投稿者が何かを幽霊と見間違えた場合などは、間違いでも一応ホントの話をしているから「幽霊は実在する」とはならないが「実話」とは言える)

「事件の目撃談」でもそうだが、通常はその話の信憑性が客観的に確認されなければ「実話」としてテレビや本に出ることはない。確認が取れない話は「・・さんの証言によると」になり「実話」とは言わない。

だが、怪談だけは例外である。話がホントかどうかなどは調べない。もっとも「幽霊を見た」という人の話がホントかどうかを調べる方法がない。幽霊は霊感がある人にしか見えない(というかそう言う事になっている)から「事件の目撃談」のように同じ事象を見ていた他の人が、「それは見ていない」と言っても、それは霊感がないから「見えなかった」で片付けられてしまう。だから、心霊現象は「見た」という人がいれば、それはすぐに「実話」体験になる。

こどもの頃は誰もが「オバケの話」が怖かった。でも大人になるとオバケ話は怖くない。それは「オバケの話」が作り話だとわかっているからである。だが、オバケは怖いから「実話」となると怖い。だから大人を驚かすオバケ話は「実話」に限る。というか「実話です」と言わないと人は驚かない。従って「実話」となると人は興味を持って聞きたがる。

そうなると、心霊体験集は「実話」でなくてはならない。「実話」でないと売れない。もちろん、一般の人から多数の本当に体験した恐怖の「実話」も投稿されているとは思う。だが、昔から誰かが「私は幽霊を見た」と言えばすぐに「事実」として「実話」体験談としてしまうのが、日本のメディアの体質である。要は幽霊を「見た」と言ってくれる人がいれば良い。「見間違い」かどうかは関係ない。「ウソ」かどうかも関係ない。

これでは、誰かが体験談を話したという「事実」があるだけで、体験談の話の内容が「事実」とは意味合いが違う。だけど「幽霊を見た」と言う人がいれば、それはもう立派な「心霊体験実話」になる。こうなると「事実に基づいた実話」のはずが単に「(誰かが体験を)話したという事実が実話」になっている。要は「幽霊を見たという人が本当にいる」のは「実話」ですよということである。「実話」の意味が違うが「実話」には違いないから「実話」と称する。これで本としては「ウソ」は言ってないことになる(と思っている)。それだから、日本には(裏づけのない)「心霊実話」が多すぎるのではないかと感じる。そう、日本には「幽霊」が多すぎる。

「実話」怪談によれば、日本全国の学校のトイレと音楽室と理科室には必ず「霊」がいる。地方のアパートの廊下にも都市のマンションのエレベーターにも必ず「霊」がいる。観光地の旅館やホテルには「地縛霊」が必ずいて、タクシーの運転手は何人も「幽霊」を乗せている。何とかの遺跡には戦国時代の武将か旧日本軍の兵士が必ず「浮遊霊」として徘徊している。墓地では必ず「心霊写真」が写る。もちろん誰の家にも必ず「幽霊」が住んでいる。そしてテレビに出てくる「霊能力者」は「心霊スポット」を勝手に作り、聞かれると街中やテレビスタジオの中で「霊が見える、そこにいる」と言い出す。繰り返すが、日本には「幽霊」が多すぎる。

だが、身の回りで「幽霊」を見たという目撃談は極端に少ないというか、まともな話は聞いた事がない。テレビや本で良く見る「心霊写真」もまわりで持っているヤツがなかなかいない。お墓参りで墓地に行ったり、旅行で観光地に行ったりして記念写真を撮っても「霊」が写っていた例がない。全国どこの旅館やホテルに泊まっても「恐怖体験」などに出会った事がない。「霊感」が強くないのか、あるいは全くないからかも知れないが、そもそも「霊感」があるとか強いとかいう人間をまわりであまり見ない。(インチキや自称霊能力者はいるが)

メディアでは視聴者や読者からの「実話」の心霊話が溢れているのに、その多すぎるはずの「幽霊」は現実の世界では溢れていないのである。これこそホントの「怪談」である。

やはり、ホントと思われる「心霊体験」を体験者から直接聞いてみたい。だからと言う訳ではないが、オチャマメでは「怪談」を人前で語るのが上手い人にも出演してもらいたい。もちろん、エンターテインメントとしての怪談話でも良いし、「実話」の心霊体験でも良い。「プライバシーを考慮し仮名」ではなく、実名(もちろん芸名でも良い)でステージに上がり、「周囲の方への著しいご迷惑を恐れずに実際の地名」で「怖い話」をして頂きたい。

さあ、勇気をもって「あなたの体験談をお寄せ下さい」

注: 「オチャマメ」 とは、テレビ局プロデューサー、ディレクター、 放送作家等と組んで定期的に開催しているライブショー。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 コレって「ヤラせ」?


企画を考えるのは難しい・・・

制作・演出 松本こうどう

昼休みの楽しみ方を人に見せるのは難しい。企業紹介の映像を制作したときのことであった。

高校卒業で就職する若者向けに、ある大企業の工場を紹介するビデオ制作の仕事があり、その会社の総務の人と一緒に撮影を行なった。就職先を探す若者に工場の紹介とは言っても仕事内容よりも工場勤務の楽しさをアピールするビデオである。社内の楽しさを強調するビデオである。

総務の人がいろいろと考えていた。そのひとつが、昼休みのバレーボールであった。工場敷地内に芝生があり、社員の憩いの場となっているエリアがあったが、いつ見ても誰もいない。もちろんバレーボールなどをやっている社員などひとりもいない。だが、総務の人はここで社員のみんなが、お昼にお弁当を食べ、輪になってバレーボールを楽しむ和やかな雰囲気のシーンを撮りたいとおっしゃる。その発想は古いし、ちょっと違うんじゃないかなと思ったが、ここは総務の人の言うとおりにやらねばならない。

撮影当日のお昼休みの時間。件の芝生のエリアには、やはり誰もいない。すると総務の若い社員がオフィス棟に走って行き、制服姿の事務職の女子社員たちを集めて来た。みんなで芝生のあちこちに座り、お弁当をひろげた。どこからかバレーボールが運ばれて来て、作業着姿の男子社員たちと女子社員たちが輪になってバレーボールを始めた。あっと言う間に「空き地」だった芝生のエリアが楽しそうなピクニックエリアになった。

やはりバレーボールをやった事がないのか、みんなヘタであったが何とか撮影を終えた。出来上がったVTRを見てみると、みんな笑顔でお弁当を食べ、楽しそうにバレーボールをやっている。和やかである。とても即行で作った憩いの場には見えない。完璧な仕上がりで総務の人たちも嬉しそうである。

だが、話はこれで終わらなかった。後日に総務の人から電話があり、あのバレーボールのシーンはカットしてくれと言ってきた。あんなに喜んでいたシーンである。映像の映りも良かった。だが、問題は別にあった。

ワケを聞くと、会社説明会が行なわれ高校生たちにこのビデオを観てもらったところ、高校生たちから口々に「昼休みにバレーボールはやらなきゃいけないんですか?」と質問されて困ったそうである。やはり「昼休みにバレーボール」は、今の若者にウケないようである。若者たちは昼休みにはもっとほかにやりたい事があるそうだ。だが、今さら「実はあのシーンは・・・」とは言えない。思わず笑いたくなるような展開であった。

ビデオでバレーボールに興じる社員たちの姿を見て「昼休みにバレーボール」は義務と思う若者たちにも笑ってしまうが、総務の人が言った次のひと言も思わず笑ってしまった。

「やっぱり、サッカーにしときゃ良かったかな」 この総務の人はやっぱりわかっていないようである。

コピーライト2006 松本こうどう

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