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  • 2007.07.28 Saturday
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演出ノート 乗ってはイケナイ電車


ロケ現場での撮影はいつも忙しい・・・

制作・演出 松本こうどう

ついこの間乗った電車は、ホントは乗ってはイケナイ電車であった。

確か、平日の朝8時30分過ぎくらいであった。編集作業に向かうために、地下鉄「国会議事堂」駅で乗り換えて、小田急線に乗り入れている千代田線に乗る予定であった。

千代田線のホームに降り立つとちょうど電車が入ってきた。一番前の車両に飛び乗った。駅員がいたが別段何も言われない。あたりまえである。電車に乗るのに駅員に何か言われるワケがない。だが、今から思えば一言何か言って欲しかった。

車内は非常に空いていた。立っている人はおらず、座席も座っている人で3割程度だけが使用されている感じである。言うなればガラガラの電車であった。

座席に座ってボヤっと周りを見ていた。小田急線にそのまま乗り入れている電車だったので、確か「代々木上原」から地上に出る。しかしまだ地下鉄路線なので窓からは景色は見えない。

ふと気がつくと目の前の女性が化粧をしている最中である。コンパクトの鏡を覗き込んで一生懸命(のように)に口紅を塗っている。最近、問題となっている電車内での女性の化粧である。目をそらすと、何と左に座っている女性がこれまた一生懸命にアイシャドーを塗っている。アレッと思っていると、私のまわりだけでも5,6人の女性が、そして車内全体では何と3分の1くらいの女性が化粧をしている最中であった。それも堂々とである。

どの化粧中の女性もまわりの目などは一切気にしていない。化粧中でない他の女性たちも化粧中の女性たちのことを気にしている感じでもない。女性エキストラの控え室か女性化粧室の中にいるような気になってきた。「何だかヒドいなぁ」と独り言を言ってまわりの化粧女性に不快な視線をおくる。だが、この化粧女性たちは一向に気にしない。

これはヒドい。マナーもヘッタクレもあったもんじゃない。「これじゃ女性専用車両ではもっとヒドいだろうな」と思いながら何気なく窓に目をやるとピンク色の大きめのステッカーが貼ってあり、「女性専用車両」と書いてある。今までも「女性専用車両」と書いてある車両に日中に乗ったことがあるが、導入時間とは違っていたので気にしたことがなかった。

だが、今回は朝である。もしやと思いステッカーに書いてある導入時間を見てみる。「平日7時10分から9時30分の千代田線綾瀬駅及び代々木上原駅を発車する列車」と書いてある。慌てて腕時計を見てみる。まだ8時40分くらいである。あらためて車内を良く見るとほかの乗客はみんな女性である。女性しか乗っていない。どうりで・・・。そう、私は「女性専用車両」に乗って堂々と座っていたのである。

マズいなと思う。もう数駅は「女性専用車両」に乗っている。冷静に考えて見る。その結果、さり気なく隣の車両に移れば良いと言う結論を出す。しかし1両目の一番前の方に座っているので、2両目である隣の車両に移動するには沢山の女性の前を通過しなくてはならない。となりの車両への連結部を見てみる。たった車両1両分の距離なのに永遠に遠い距離に見える。そんな長い距離を歩く勇気はない。

そうだ、次の駅で降りよう。元警視庁刑事の北芝謙さんによると、こういう場合は警察用語でその場からの「離脱」と言うそうである。電車の中で痴漢の冤罪をかけられたときは、その場から去るのが良い。だが悪いことはしていないから決してその場から「逃げて」はいけない。「逃げる」のは悪いことをしたときに使う行為である。だから、その場から「逃げず」に「離脱」するのであると言っていたのを思い出した。

私は何も痴漢に間違えられたわけではないが、いきなり他の車両に小走りで移動したら、いらぬ疑いをかけられるような気がする。そうでなくても私に気がついた女性たちからの視線に耐えれない気がする。だが、すぐにこの場から「離脱」したい。車掌に言いつけられる前に「離脱」したい。

早く次の駅に着かないかと気をもむ。女性たちの化粧は続く。私は視線を逸らすが、地下鉄路線だから窓の外を見ているポーズを取るというわけにも行かない。目をつぶってみる。だが、寝たふりをするのはワザとらしい。すぐに目を開ける。情けないが、先ほどとは打って変わって自分の態度が急に小さくなる。今度は(というか最初からだったのだが)こちらの立場はどう見ても悪い。居心地が悪いどころではない。

時間にして数分のはずだが、次の駅まで10分はかかったような気がした。

次の駅を知らせる車内アナウンスが入る。電車が止まる。ドアが開くのが待ち遠しい。やっとドアが開く。ここで走り出してはいけない。駆け込み乗車ならぬ駆け出し下車はいけない。走ると誰かが私の背中越しに「この人痴漢です」と叫ぶような気がする。さり気なく座席から立ち上がる。ゆっくりとドアに向かう。落ち着いているのではない。内心はドキドキである。ほかに下車する人も乗車してくる人もいない。気のせいか背中に沢山の視線を感じる。ステージに初めて立った役者のように緊張する。

ホームに降り立つ。ここでも走ってはいけない。ゆっくりとホームの中程に進み、立ち止まる。用もないのに携帯電話を取り出して留守電をチェックするふりをする。電車の方をさり気なく振り返る。誰もこちらを見ていない。ドアが閉まる。電車が走り出す。何も問題はなさそうである。長い緊張のときが終わる。やっと安心して次の電車を待つ。

偶然にも私は「女性専用車両」の内部を見たことになった。「女性専用車両」の実態をつぶさに観察して見たのである。「潜入取材」である。ここで3つの疑念が頭をよぎった。

まず始めに、この路線のこの時間に果たして「女性専用車両」は必要なのであろうかという事。ラッシュで混みあっている反対方向に進む電車と違って、郊外に向かうこの路線はガラガラである。それでも「女性専用車両」を設ける意味がわからない。

次に「女性専用車両」はもっと目立つように車両全体をピンク色にしてもらいたい。ドアや窓のピンク色のステッカーだけではわかりにくい。

そして最後に「女性専用車両」があるなら「男性専用車両」もあるべきである。これは何も男女平等と言う意味ではない。

女性が平気に「女性専用車両」で化粧をするなら、男性も朝の電車内で電気髭剃器を使って自由にヒゲを剃りたい。出社前に車内で爪楊枝で歯をほじりたい男性もいるかも知れない。痴漢の冤罪の心配をせずに車内で自由に手足を伸ばしたい。だが、これらは女性客がいるとやりにくい。「女性専用車両」並みに男性にも車内での自由と安心がほしい。

「女性専用車両」はいつから「女性の自由空間」となったのであろうか。東京メトロのホームページには「朝の通勤・通学ラッシュ時に女性のお客様に、安心してご利用いただくことを目的に女性専用車両を導入しています」とある。確かに「女性専用車両」を利用している女性たちが化粧をするのは「女性のお客様に、安心してご利用いただくこと」の目的に合っている。彼女たちは「安心して」化粧をすることで「女性専用車両」を「ご利用」している。これは、東京メトロの趣旨通りである。

本来は「痴漢・盗撮・酔客による嫌がらせ等の迷惑行為への防止対策として女性専用車両を導入」とすべきであろう。それを「女性のお客様に、安心してご利用いただくことを目的に女性専用車両を導入」とするから「女性専用車両」は「女性の自由空間」になるのである。

女性にとってはコレで良い。だが、男性にとっては痴漢の冤罪の心配はつきないし、安心できる自由な空間が車内にない。早く、「男性のお客様に、安心してご利用いただくことを目的に男性専用車両を導入」して欲しい。

コピーライト2007 松本こうどう

業界こぼれ話 結婚式でのスクープ映像


カメラは決定的瞬間も捉える・・・

制作・演出 松本こうどう

今日は、「知り合いの結婚式に行く」という友人が偶然数人いた。だから「大安」なのだろうと思っていたが、カレンダーを見たら「仏滅」であった。

「仏滅」の結婚式の話ではないが、結婚式と言えば忘れられない出来事がある。以前にアメリカであった知り合いの結婚式でのことである。

日本人の知り合い二人がロスアンゼルスで式を挙げた。ロスアンゼルス在住の二人である。当時、フロリダに住んでいた私も式に呼ばれた。日本からも多数の業界関係者が式に参加した。

ロスアンゼルスの南にある海岸の丘。その丘の上にある教会で式は行なわれた。とても美しい教会である。日本の芸能人も良く式を挙げることで有名な教会である。

式の当日は天気が良かった。晴天の下、式の開始を待つ間に日本から来た招待客である業界関係者と雑談をする。どういうわけか待ち時間が長い。美しい庭の芝生の上で立ち話の雑談を続けて式の開始を待つ。

待ち時間が長いせいか、数人の日本人との雑談もネタが切れてきた。そこで誰かが仲間内の噂話を始めた。もちろん式には参加していない仲間の噂話である。するとまた誰かがほかの仲間の噂話を始める。

海外にいると何故か誰もが口が軽くなる。みんなから取っておきのゴシップネタが次々と出てくる。別に悪口ではないが、こういうのは他人が聞くと「誰々の悪口を言っていた」になる。だから、他の日本人がそばを通ると声をヒソめるか話をやめる。日本人が立ち去るとまた始める。

そんな事を続けていたら、式の様子を撮影するビデオカメラを持ったアメリカ人女性がやってきた。このアメリカ人女性はどうやら地元のビデオ制作会社の人の様である。彼女には我々が式の前に和やかに友人の結婚を喜ぶ会話を交わしているように見えたに違いない。我々の様子も撮影し始めた。しかし、このアメリカ人女性は日本語がわからないようであるから、そばに来ても構わず会話を続ける。

さて、式も無事に終わり楽しいひとときは終わった。冒頭で「結婚式と言えば忘れられない出来事がある」と書いたが実際には何事も起らなかった。というか後日になって起った事が、実は式の当日に起っていた事であった。

式から一ヶ月半ほどしたある日、私のフロリダの自宅に式の様子を撮影したビデオが送られてきた。式の当日にビデオ撮影をした会社が編集を行い、あらかじめもらっていたリストの招待客にビデオを直接送るサービスがあるらしい。差出人はロスアンゼルスのビデオ会社になっている。

さっそくビデオを観る。ビデオには冒頭のオープニングの後、式の前の様子が映っている。たくさんの招待客が美しい教会の庭で歓談している。みんな楽しそうである。そこに突然、我々が雑談していた件の様子を撮影したシーンが出てきた。

雑談をしている我々全員が映っている。「あっ」と息をのむ私。そこには、はっきりとした音声で実名入りの他人の噂話を次々と話す我々の姿がアップで映っていた。大変なシーンである。言い逃れが出来ない決定的なスクープ映像である。

普通なら音声を変えて顔にモザイクをかけるか、実名を言っている部分に「ピー」と信号音を入れなきゃならないシーンである。いや、本来ならすべてカットすべきシーンである。だが、編集したのがアメリカ人だったから我々の会話内容がわからなかったらしい。

日本人がそばに来ると会話が聞こえないようにしていたが、アメリカ人が持っていたビデオカメラまでは気がまわらなかった。カメラマンのアメリカ人が日本語がわからなくてもカメラは事実をきちんと捉える。ウカツであった。

早速、式を挙げた知り合いに電話をした。だがその時点ではもう時すでに遅く、100人近くいた招待客全員にそのビデオテープは送られたあとであった。とんだ失敗談である。

この噂話をした日本人たちとは、それぞれその後に何度も仕事で会っているが、何故か誰もこの結婚式での出来事については語ろうとはしない。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 映像監督はおもしろい


ロケ風景・・・モニターチエックで忙しい

制作・演出 松本こうどう

ドラマ仕立ての映像撮影を行った。ある会社がインターネットや求人応募者に公開するプロモーションビデオ映像の監督をやったのである。

テレビ番組の最小単位の70秒の構成でドラマ1作品を撮影する。言うなれば30秒CM2本分くらいで表現するミニ・プロモーションビデオの制作である。ちょっと常識破りだが、これがおもしろい。出演者もその会社のイチ押しの美男美女の方々であったが、そこは構成と演出、そして編集によってとてもシロウト出演とは思えない作品に仕上げた。映像クオリティもテレビのオンエアにも対応できる質にした。

15秒や30秒の骨組みで最低限の表現をするCMより、少し長い70秒で情報を構成する。それをドラマ仕立てに制作・演出する。短いだけに監督のセンスが問われるし、編集も難しい。それを監督として台本作りからすべて自分で行なうのである。編集作業も私の指示で進める。

業務用ビデオ制作をやっている制作会社などでは、商品販売促進ビデオや企業紹介ビデオ、教育研修ビデオなどを良く硬い感じで作っている。結婚式の撮影ビデオでも同じであるが、無難なアングルや手法とカット割りで当たり障りのない作品に仕上げている。情報はしっかりと映像に入っているかも知れないが、やはりこれらの作風では私はおもしろさに欠けると思う。

こういった映像は良く展示会で各企業のブースで流されている。中には15分とか30分の長さでしっかりと企業情報を流している映像もある。出来る限りの情報をより多く映像に入れたい企業側の気持ちも良くわかるが、いくら情報が多くても観てもらえなければ意味がない。また、情報が多いと観る者は意外と本当に言いたいことのイメージがつかめないものである。よくあるチラシの様に、文章などによる情報が多すぎて読んでもらえないか、あるいはアピールしたいポイントがわかりにくいのと同じである。やはり、「見てもらう」のではなく、「観てもらう」ためには工夫が必要である。

出来るなら企業や店舗のプロモーションビデオもCM風ドラマや深夜の情報番組風にもっとおもしろく観てもらえるように作りたい。非日常的な視点から演出をして観るものに芸術的にイメージが伝わる作品としてみたい。観るものが飽きない5分枠(1分30秒から2分45秒くらいの作品、インターネット配信なら70秒までが良い)で、その企業のアピールしたいイメージをテレビのドラマか情報番組と同じように表現するのである。

例えば、ミュージシャンのプロモーションビデオならライブのシーンや楽屋の風景を入れた映像の連続だけでは芸がない。思い切ってこれらのシーンは一切やめて、ロケ撮影で街並みを見ながら曲に対する自分の思いを述べたり、ライブハウスの前をどこかに向かって歩いたりするカットの間に、自分で自分のイメージを演じるイメージドラマのシーンを自分の曲をバックに流して織り込む映像なんかどうであろうか。

企業の紹介ビデオなら、企業理念や商品紹介などを映像とナレーションで作るのではなく、例えばグルメ番組のように行きつけの店を紹介しながら、自社の製品やサービスをレポーターとの対談で語る演出で、社長や社員の人柄を表したらどうであろうか。

結婚紹介所やウエディング会社などでは、どうしても男女の出会いや綺麗な女性の美しいイメージ映像などがメインであるが、ここは思い切って都会の喧騒に疲れたサラリーマン風の男や普通のOLを単独主人公にして「出会いのない」イメージドラマを淡々と描いてみて最後に印象的に会社のロゴを出して、逆に「出会い」のイメージを演出してみたらどであろうか。

そんなCMやドラマ風の映像を、一般的な制作会社や広告代理店の制作費より安い費用で制作されたい方は是非とも私に相談してほしい。もちろん、撮影ははテレビ番組を撮っているカメラマンが番組で使う業務用の撮影機材を使って行なう。

やはり、こういう映像制作の監督は楽しい。監督業をやる者は職人であり、芸術家でなくてはならない。もっとこういう作品を作りたい。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 ラジオでとっさにホラを吹く?


冬には「あつかん」が合う・・・

制作・演出 松本こうどう

アメリカ在住の頃、ときどき地元のテレビやラジオ番組のゲストとして出演していた。

ゲストと言っても、私が日本人ということだけで専門外のことでも呼ばれることが多かった。そのひとつにラジオ番組での日本食の解説やコメントというのがあった。ラジオにゲスト出演してラジオ局のパーソナリティ(ラジオ番組のアナウンサー)と他のゲスト相手に日本食に関して対談するのである。

私は公共放送でコメントを語れるほど日本食に詳しくはない。だが、当時ブームとなっていた日本食でアメリカ人が聞きたい事とは、寿司や天ぷら、すき焼きなどについて日本人なら誰でもわかるような事であったから私にもできた。

例えば、こんな感じである。パーソナリティにすき焼きの具には何を入れるか聞かれる。それに対して、「紙のように薄くスライスした神戸ビーフや長ネギの白い部分などを入れる」ともっともらしく答える。(糸こんにゃくなど、彼らが見たことがないものなどは、それは何であるかなど、すき焼きから離れた面倒な話に発展するから言わない)するとパーソナリティから「私はブロッコリーやニンジンを入れるのが好き」と返ってくる。

日本ではそんなの普通は入れないと答える。言った瞬間、ニンジンは入れることもあるような気がする。だが、まぁいいやとほっておく。すると、すき焼きにブロッコリーはおいしいのに何故入れないのかと質問してくる。ここで、「それはすき焼きにおける日本の食文化、習慣だから」などとは答えない。ここでヘタにそう言うと日本の食文化に関して説明しなくてはならなくなる。(そんな知識はないから出来ない)

こういう場合は、「例えば、サンドイッチにポテトサラダは入れないでしょう、それと同じです」と答える。(アメリカには何故かポテトサラダサンドイッチというのがない) そう答えると必ず、他のゲストであるフード雑誌の編集者みたいのが「食文化というものはそういうものである」みたいなコメントで、「それは食文化、習慣だから、わが国にも似たところがある」と発言してくるから、私が日本の食文化に関して説明する必要がなくなる。

また、寿司の話になると決まってワカメなどの海藻類や海苔が話題となる。アメリカでは一般的にこれらをSeaweedと呼ぶ。アメリカ人にとってWeedは雑草であり、Seaweedもやはり海の中でゆらゆらしている雑草を連想させる。だから、食品となっている海藻類や海苔がわからない。私も海藻類や海苔など詳しく説明できない。

こういう時は、日本人もSeaweedは食べないと答える。あの食べているのはSea Spinach(海のほうれん草)であると答える。(実際には、海のほうれん草なんてものはない。Sea Spinachは私が作った造語である)すると、なるほどという顔をして納得する。余談ではあるが、アメリカの寿司屋でSeaweedと呼ばれている海藻類や海苔を、食わず嫌いのアメリカ人にSea Spinach(海のほうれん草)であると説明してみる。すると、アメリカ人も食べてみて好きになる場合が多い。こういう「方便」は良い。

ある時、地元のタレントやニュースキャスターと一緒にラジオでワインや日本酒を試飲する番組があった。アメリカ人にとって日本酒はワインみたいな感じであるが、「あつかん」は珍しい。Hot Sakeであるが、Hot Wineというのがないから熱い酒はなじみがない。

そこで私が番組に呼ばれて「あつかん」の作り方から説明することになった。「あつかん」は酒を「とっくり」に入れて湯で温めるのが普通と思うが、アメリカ人は「とっくり」を持っていない。ではどうするか。紅茶でも同じだが、アメリカ人は酒を適当なカップに入れて電子レンジでチンして温める。簡単である。

ラジオ番組では電子レンジではない「あつかん」で出演者が試飲することになり、私がその「あつかん」を用意することになった。しかし、アメリカに住んでいる私も「とっくり」を持っていない。そこで考えた。

日本食料品店からワンカップ大関を買ってきて、それをそのまま水をはった鍋にいれて火にかけてみた。鍋の水が沸騰してしばらくしてワンカップ大関を出してみると見事に「あつかん」になっていた。わずかにワンカップ大関のフタが内側から外に膨らんでいたが大丈夫であった。

本番収録はワインの種類が多い地元で有名なレストランで行なわれることになっていた。この店は日本レストランではないから、数日前に何本ものワンカップ大関を持ち込み、同じ方法で「あつかん」にしておくように店の人に頼んでおいた。

さて、収録の当日。まずは店のソムリエが数々のワインを紹介する。それをゲストたちが試飲しながらコメントする。そして、「あつかん」の登場となった。パーソナリティが「あつかん」を説明する。そして今日は電子レンジではなくて湯に入れて温めたHot sakeであると解説する。

私が数日前に持ち込んだワンカップ大関の「あつかん」が運ばれてきた。湯から出したワンカップ大関のフタがかなり内側から外に膨らんでいた。どうやら、数日間「煮こんだ」ようである。でもフタは壊れていない。それらを確認している私の横でパーソナリティが「酒はワインと違って赤はなく白しかない。それも水のように透きとおった白である」とマイクに向かって説明している。皆の前にワンカップ大関の「あつかん」を置く。

そのときである。ゲストの一人が「このHot Sakeは水のように透きとおってなく、白ワインのように少し黄色い」と言い出した。そんなことはない。ワンカップ大関は透明の酒のはずである。横においてあるCold Sake用のワンカップ大関はちゃんと透明である。ワンカップ大関の「あつかん」を持って太陽の光に当ててみる。確かにアメ色のように少し黄色い。、数日間「煮こんだ」ために変色したようである。

これはマズい。いくらなんでもやり方が悪くて変色したとは言えまい。どうしようかと焦った。そこにパーソナリティが、どうしてこのHot SakeはCold Sakeとは色が違うのか聞いてきた。「Yes・・・」と言いながらワンカップ大関の「あつかん」に目をやる私。

ワンカップ大関の「あつかん」は金色とも言える見事なアメ色をしている。その時、とっさに口から「これはPremium Goldの酒です」というセリフが出た。「プレミアムゴールド」の一言でその場が盛り上がった。ゲストのニュースキャスターが、「日本ではスシシェフ(寿司職人のこと)だけが飲める特別な酒がある、と聞いた事があるがそれがこれか?」と聞いてくる。「そうだ」と答える私。こういうのは「方便」とは言わない。とっさの「ホラ」と言う。

すると、パーソナリティがヨーロッパのレストランのシェフにもそういう特別なワインはあるのかと他のゲストに聞く。話はそっちの方で盛り上がる。「あつかん」を試飲しながら、Hot Wineはうまいだろうかと盛り上がる。幸い、「プレミアムゴールド」についてそれ以上に聞かれなかった。味がヘンだと思ったゲストも一人もいなかった。

最後にパーソナリティが、テレビでなくラジオなのできれいな色の「プレミアムゴールド」をリスナーの皆さんにお見せできなくて残念ですとコメントした。

テレビでなかったから、酒の変色はバレていない。ラジオではラベルが映らないから「プレミアムゴールド」がワンカップ大関であったとバレていない。

こちらにしてみれば、テレビでなくてラジオだったから助かった。今だから話せるが、これはマズかったとわかっている。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 「コアラのマーチ」 は 「かわらせんべい」?


1990年5月にロッテの「コアラのマーチ」がアメリカで販売開始

制作・演出 松本こうどう

(朝日新聞 コラム欄「ひととき」に執筆 1989年6月30日掲載分 ※在アメリカで寄稿)

どこのメーカーのものだったか忘れたが、日本に動物のコアラのかっこうをしていて中にチョコレートの入った ”コアラのマーチ” という箱入りのかわいいお菓子がある。

以前、数人のアメリカ人たちが日本に研修に行き、おいしいと評判になったのが、きっかけである。

日本に行く人がいるとこのお菓子を買ってきてほしいとたのまれるのだが、実を言うと日本人たちは皆、現物を見るまでどのお菓子のことだかわからなかった。なぜなら、お菓子の箱に書いてある名まえを当然アメリカ人たちは読めないから、彼らの間では勝手に ”クワラクッキー” と呼ばれていたからである。(アメリカ人がコアラを発音すると ”クワラ” に聞こえる)

ある時、一時帰国をする日本人がアメリカ人たちにこのお菓子を買ってくるようにたのまれた。「日本にしか売っていない日本独特のお菓子で名まえは ”クワラクッキー” 」という説明を受けたこの日本人、一生懸命考えた揚げ句、何とか日本でその ”クワラクッキー” を見つけてきた。

たくさん買ってきたらしく、大きな包みを持ってもどってきたこの日本人が、うれしそうな顔でアメリカ人たちに渡したその ”クワラクッキー” は何と大量の ”かわらせんべい” であった。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 「キャベツおかわり自由」の意味は?


どこのレストランでも「おかわり自由」は当たり前?

制作・演出 松本こうどう

とんかつ屋の店内に良く「キャベツおかわり自由」と張り紙がしてある。

最近では「ごはん・味噌汁おかわり自由」というのもあるが、「キャベツおかわり自由」が元祖であったと思う。だが、この「おかわり自由」は何かヘンな表現である。

キャベツやごはん、味噌汁が「おかわり自由」と書いてある店では当然のことながら、「おかわり」を店の人に頼むと持ってきてくれる。例えば、とんかつ屋で「キャベツのおかわりとごはんをもう一膳」と注文するとちゃんと出してくれる。

これは別に「おかわり自由」と書いていない店でも同じである。例えば、ファミレスで「野菜サラダのおかわりとライスをもう一個」と注文するとちゃんと出してくれる。

では、「おかわり自由」と書いてある店と書いていない店とでは何が違うのか。答えは「おかわり自由」と書いてある店では、その品は食べ放題であり、追加料金はいらないということになっているようだ。「そんなこと言われんでもわかっとるわい」と言わないでほしい。

もう一度、店の張り紙を見てみる。「キャベツおかわり自由」と書いてある。良く考えて欲しい。「おかわり自由」には「食べ放題」とか「同じものを重ねて注文しても無料」とかいう意味はない。「おかわり自由」は「おかわり(をするの)は自由です」という意味しかない。

基本的にどこのレストランでも「おかわり自由」である。「おかわり」を禁止していない。勘定さえ払うのであればいくら「おかわり」しても良い。だからワザワザ「おかわり自由」と書く必要がない。

だが、例えば「当店では食べ過ぎなどでお客様が健康を損ねることがないように、おかわりは制限させて頂きます」という店があれば「おかわり自由」ではない。そうでない限り、どの店も普通に「おかわり自由」である。だからワザワザ「おかわり自由」と書くと誤解を招く。

「キャベツ、ごはん、味噌汁おかわり自由」などと書いてあると、「そうか、とんかつとか他のメニューはおかわり注文出来ないんだ」と思う人が出てくる。「キャベツ、ごはん、味噌汁はおかわりしても良いが、他の品は最初に注文したあとにもっと食べたくなっても、この店ではおかわりは自由でないんだ」と思う人がいても不思議ではない。店の真意が客に伝わらない。

あるいはこういう事も考えられる。例えばあなたがとんかつ屋に入る。店内には「キャベツおかわり自由」と書いてある。あなたはとんかつ定食を食べて、キャベツのおかわりを頼む。店のオヤジは気持ちよくキャベツのおかわりを出してくる。あなたはそのおかわりも食べた。さて勘定の時に、伝票にはキャベツのおかわり分の料金もちゃんとついていた。

驚いたあなたは店のオヤジに文句を言う。「キャベツおかわり自由」と書いてあるではないかと。店のオヤジは平然と、ウチは「キャベツおかわり自由」と言っているが、「おかわりは無料」とは一言も言っていないと反論してくる。食いたいヤツは食いたいだけ自由に食っても良い。だけどカネは貰うよと。これは店のオヤジが正しい。

「キャベツおかわり自由」と書いてある店には、こういうのがあるかも知れないから気をつけたい。(普通はそんな店はない)

では、客がこの様な誤解をしないように「おかわりしたい意思があれば、おかわりするのは自由で、さらにおかわり分は追加料金はなしです」という意味を、張り紙に短く表現する場合は何と書けば良いのであろうか。

「キャベツ食べ放題」と書いた場合。これだと「バイキング2時間食べ放題」を連想させる。だから時間制限なしで「キャベツ食べ放題」のようでヘンである。食べ放題は困るが「おかわりしても良いですよ、その分はサービスですよ」という店側の微妙なニュアンスが出ていない。

「キャベツ追加無料」と書いた場合。これだと、例えば最初の注文の時にキャベツ付きのメニューを注文していないヤツが「キャベツは、最初の注文時に頼むと有料だが、追加で注文した場合には無料になる」と思ってしまうからマズい。おかわりの分だけが無料という意味が明確ではない。

「キャベツおかわり無料」と書いた場合。これだと「キャベツおかわり自由」の「自由」を「無料」に変えて、一見明確にしたように思えるが問題がある。先の「おかわり自由」の「おかわり」は明らかに動詞である。すなわち、「おかわりをする」という動作を表したものであり、決して「おかわり」する「品そのもの」を表す名詞では使ってはいない。

従って、「キャベツおかわり無料」は「おかわり」する動作そのものは無料であるという意味だけを表していると誤解されかねない。どういう事かと言うと、客が「おかわり」をするとその分余計に店員が働かなくてはならないので、そのサービスの人件費分は有料である店があるかも知れないが、当店では「おかわり」というお客様の要望に応える店員の動作は無料です。しかし、「おかわり」する「品そのもの」が無料とは言っていないと取るヤツがいる可能性がある。(普通はそんなヤツはいない)

それでは、「キャベツおかわり品無料」なら良いか。「おかわり」ではなく「おかわり品」とする事で、「おかわり」する「品そのもの」を表す名詞である事を明確にしている。しかし、客によって求める「おかわり」の分量にバラツキがあり、量として「一品」となる基準がないから、「おかわり品」ではなく「おかわり分」とした方が良い。

従って「キャベツおかわり分無料」が良い。「何だそんな事か」と思わないで欲しい。これで店の真意が客に伝わるということになる。それにしても店は何故「キャベツおかわり自由」と書くのであろうか。

昔は皆貧しかった。家では安いキャベツばかり食べていた。だが、いくら安いキャベツでも当時家族の多かった日本の家では勝手に「おかわり」は出来ない。いちいち母親に伺いを立てなくてはならない。自由に「おかわり」は出来なかった。

そんな時代を生きた世代のオヤジが開店したとんかつ屋では、お客様さんにはキャベツを自由に「おかわり」して腹いっぱい食べて欲しいと思った。その願いが「キャベツおかわり自由」という表現になったのではないだろうか。

だから「おかわり」と言えば、「無料」ではなく「自由」という言葉が続くのである。キャベツが自由におかわり出来るほどの幸せはなかった。

「キャベツおかわり自由」は日本の文化である。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート 東京都交通局の深夜バスはボッタクリ!


ボンネットバスは懐かしい・・・

制作・演出 松本こうどう

つい先日の事である。ボッタクリのバスに乗った。

イベント制作の帰りに渋谷駅を出ると目の前のバス停に運良く (とその時は思った) バスが止まっていた。夜の11時過ぎのことであったが、何も考えないでこの停車中のバスに飛び乗った。

実は、まだ地下鉄がある時間にこのバスに乗った自分は運が悪かったのである。

東京都交通局が運行する 「渋谷駅前」 発 「新橋駅北口」 行きのバスであった。途中に 「六本木駅前」 を通るいつも見るバスである。だが、このバスはいつもとは違った。

この路線には前にも乗ったことがある。この日も前と同じ様に運賃箱に料金200円を入れる。するとその直後にバス運転手から軽く、だがしっかりと腕をつかまれた。

「深夜バスなので400円です」と注意を受けたのである。思わず腕時計を見た私は、「深夜」の意味がわからず、だが取り合えず「すみません」と言って、もう200円を料金箱に追加して入れた。400円を払ったことになる。

23:05発のバスである。何も特別に遅い時間ではない。特別に遠距離に行く深夜バスでもなければ、観光バスの様に車体が特別仕様のバスでもない。極端に利用者の少ない時間帯の深夜運行のバスでもなく、車内は普通に混んでいる。また、運転手が美人女性ということでもなければ、飲み物のサービスがあるわけでもない。言うなれば普通の夜11時過ぎ発のバスである。

だが、料金だけはいつもの2倍である。評判の悪いタクシーの深夜料金でさえ3割増しなのに東京都交通局の深夜バスは10割増しの2倍の料金である。さらに、この時間のバスに深夜料金を適用する意味がまったくわからない。もっと言えば公共交通機関が深夜料金を適用していることは理解に苦しむ。

この東京都交通局の「渋谷駅前」発の路線バスに限って言うと、深夜バスは平日の23:05発と24:05発の2本だけである。この2本が料金2倍の400円である。

では、同じ区間 (同じ路線でもバス側が路線番号を変えているので区間と呼ぶ) で通常料金の最終運行時間は何時かと言うと、22:23発が「新橋駅北口」行き最終バス、22:40発が「溜池」行き最終バスである。

すなわち、東京都交通局のバスに乗って 「渋谷駅前」 から 「六本木駅前」 まで行く場合、22:40「渋谷駅前」発のバスに乗れば200円であるが、そのわずか25分後の23:05に発車するバスに乗ると400円取られるということになる。

この23:05発のどこが深夜なのか。24:05発にしても同じである。今の時代、どう考えても通常運行の通常料金の最終バスが24:05発であっても何もおかしくない。なのに23時を過ぎると何故「深夜バス」となり、料金を2倍にしなくてはならないのか。合理的な理由が全く見つからない。

23時以降は職員の勤務体系が深夜勤務だから人件費が余計にかかるとでも言いたいのであろうか。百歩譲ってそうだとしても、では何故同じ東京都交通局が運行する都営地下鉄は深夜24:34発の電車に乗っても料金は通常と同じなのか。

電車では夜の11時過ぎから終電までの晩い時間は深夜電車で、料金が通常運賃の2倍になるというようなバカなことはない。バスと違って電車には深夜料金などと言うバカげたシステムはない。なのに何故バスには深夜料金が認められるのか?

はっきり言って、この東京都交通局の深夜バスはボッタクリである。たかが23時、24時発くらいのバスを深夜バスなどと謳って、通常運賃の2倍も取ることに何の疑問も持たない東京都交通局は公共交通機関としての資質に欠ける。利用する方もこのボッタクリに何の疑問も持たないのは不思議である。

飛行機でも利用者が少ない時期・時間・区間などでは通常料金より割安の航空運賃を適用するなど集客には企業努力をしている。決して深夜発の夜行便は航空運賃は2倍であるというバカなことはない。

東京都交通局は深夜バスの運行で料金を2倍にしたいなら、その運行はちゃんと「深夜」からにして、少なくても始発電車の時間までは「深夜バス」を走らせるべきである。その運行体制であれば利用者も料金の2倍は納得できる。

それを最終バスの何本かを体裁よく「深夜バス」などと呼び、運賃2倍を取りながらあたかも利用者の公共性に貢献していると勘違いしているのは、安易なサービス商法であり、利用者を無視して自分たちの都合だけを優先した単なるボッタクリである。

「東京都交通局は、利用者のために夜遅くにもバスを走らせてやって余計な仕事をしているのだから、深夜バスと呼んで料金は2倍にして何も文句はないだろう」という驕りが感じ取られる。都がこんなことを続けるなら東京都交通局も民営化した方が良い。

良く役所などの取材で、どう考えても意味のわからない回答しか返ってこない場合がある。東京都交通局に「深夜バス」に関して取材したことはないが何となく想像はつく。

そのうち「早朝バス」というのを考え出して、始発から何本かは運賃を2倍にするアイデアが東京都交通局から出てきそうである。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 「糸電話」は昔は何と呼ばれていた?


「糸電話」には「電」は関係ない・・・

制作・演出 松本こうどう

「糸電話」はおかしな名称である。

「糸電話」は「電話」が発明されるより以前に発明、というか考え出されたものである。だが、名称に ”電話” とついている。ヘンである。

「糸電話」は「電話」が発明される前は何と呼ばれていたのであろうか。「糸電話」以外に「糸電話」を形容する名称がない。不思議である。

「糸電話」は1665年にロバート・フックというイギリスの物理学者が、世の中に初めて本で紹介したとされている。それから200年以上経った明治の初期、おそらく1870年には日本にも紹介されている。

一方、「電話」は1876年にベルが発明。1877年にはベル式の電話機が日本に輸入されて工部省と宮内省の間で電話回線が使用されていた。翌年にはベル式の日本製電話機1号が誕生し、1890年に東京と横浜で一般電話の使用が開始されている。

何と「糸電話」は「電話」の発明の211年も前に考え出されている。しかし、このときは「糸電話」の構造だけが紹介されており、名称の記録はないようである。(「糸電話」は当初は金属線を使用しており、日本も紹介された当初は金属線を使用)

「糸電話」は日本語であるから日本の状況を考えてみる。「糸電話」の存在を日本人が知ったのは1870年ごろ。日本人が「電話」を知ったのはその後の1876年のベルによる電話の発明のとき。このときに「電話」という訳語は生まれたと思われる。

日本では「糸電話」の存在を知ってから「電話」という言葉を知るまでは6年程度と意外に短い。だが、日本ではこの6年間は「糸電話」は何と呼ばれていたのであろうか。「電話」の訳語を知らない日本人が「糸電話」に ”電話” とはつけられない。さらに当時は「糸」でなく「金属線」を使用していたから、「糸電話」に ”糸” とは普通はつけない。

「糸電話」が日本で一般の遊びに普及したときには、「金属線」の代わりに安価な「木綿糸」が使用されている。 ”糸” はその時から名称につけられたのであろうか。それでも「電話」の存在や訳語を知るまでの間は「糸電話」は日本で何と呼ばれていたか、さっぱりわからない。

「糸電話」には、「糸電話」以外に「糸電話」を形容する名称が、どうしても思い浮かばない。「糸電話」は「電話」が発明される前までの間は何と呼ばれていたのか想像もできない。これが何ともおかしい。

実は、当時から「イトデンワ」と呼ばれていた。だが、「糸電話」は当て字である。「電話」が発明されてから名称に「電」の漢字が使われた。それまでも「イトデンワ」と呼ばれていたが、漢字は「糸伝話」と書かれていた。「糸を伝わる会話」で「糸伝会話」とされていたが、略されて「糸伝話」になり、「電話」の普及とともに「糸電話」と書かれるようになった。

「糸電話」は「糸伝話」と呼ばれていた。これで、不思議な「糸電話」の名称の謎が解けた。

断っておくが、この「糸伝話」説は私が考えた話(作り話とも言う)である。想像した話だから決して人には言わないで頂きたい。本気にする人がいたら困る。特に国語学者などには絶対に言わないでもらいたい。

コピーライト2006 松本こうどう

演出ノート モデルの女の子が行方不明!


あれっ、集合場所に誰も来ない・・・

制作・演出 松本こうどう

出演者が収録時間になっても撮影現場に現れない。

主役級は全員揃っているのに、仕込みの脇役が来ないために番組収録が出来ない。現場ではこれはホントに困る出来事である。

一般論で言えば、理由のいかんを問わず、時間通りに現場に来ないヤツが悪い。言い訳は通用しない。だが、遅れた理由を調べて見ると制作側のスタッフ関係者にもっと配慮があったらふせげていた遅刻だったかもと思う場合が結構ある。

誰が悪いではなく、現場に来ない人間がいると結局はその場の全員に迷惑がかかる。いくら遅れた人間の自己管理や自己責任を問うても、結局は損をして大変な目にあうのは制作側である。従って、制作側スタッフにも自覚と責任感が必要である。

かなり以前の事であるが、ロケ先でモデルが二人ほど行方不明になったことがあった。もちろん、モデルの彼女たちにも多大な落ち度があるのだが、制作側スタッフにも配慮が足りなかった場合に起きたアクシデントの好例なので話してみたい。

京都での撮影の時であった。前日まで他の地方での撮影があった制作スタッフ陣は、その日の朝早くに京都入りして、京都駅周辺で出演者および他の関係者と待ち合わせる事になっていた。待ち合わせ場所は前日の夜遅くに決まった。従って、事前にファックスで関係者に配られた撮影スケジュール表には、「当日の集合場所は京都駅周辺、詳細は前日に決定して連絡」と記されていた。

前日にレポーター役の子が宿泊した「京都新・都ホテル」の前での集合と決まった。京都駅前のホテルである。当日は集合時間までに、レポーター役の子も含めて関係者が続々と集まって来た。

モデル役の子たちを3人お願いしており、その子たちはそれぞれ別々の場所から集合場所に自分たちで来ることになっていた。時間までにモデルの一人はやって来たのだが、他の二人は中々来ない。スタッフの担当者に言わせるとこの二人を含めたモデル全員に前日に宿泊していたホテルに電話をかけて集合場所と時間をきちんと伝えてあるとのことであった。確かにそのうちの一人はきちんと集合場所に来ている。

モデルと言ってもマネージャーが一緒に来るクラスの子たちではない。本人たちが責任を持って現場まで来なくてはならない。スタッフの担当者もちゃんと伝えてあるのにと首をかしげる。当時はまだ携帯電話を所持していない人も多かった。十九か二十歳くらいのこのモデルたちもやはり携帯電話なんか持っていなかった。

彼女らがそれぞれ前泊したホテルにも問い合わせてみたが、彼女らはちゃんと今朝それぞれチェックアウトしている。簡単に言えば、二人のモデルが行方不明になっているのである。「行方不明」とは大げさにと思われるかも知れないが、こういう時の当事者の気持ちにはこの表現がピタッリと合う。

30分を過ぎたあたりから、こちらも焦ってきた。他の関係者のイライラも募ってくる。本当はこのモデルたち抜きで撮影を見切り発車したいが、撮影の構成上そうも行かない。さらに15分が経過する。もう限度と感じた私はスタッフの担当者に、彼女ら二人に電話で何と伝えたのか、正確に教えろと迫った。

彼は「集合場所は京都駅の京都新・都ホテルで時間は○○です」とちゃんと伝えたと繰り返す。ホテルの住所も電話番号も伝えてあると言う。だが、ホテルには何の連絡もないし、彼女たちは現れない。

その時に私はハッと思った。彼女たちはもしかすると「京都新・都ホテル」ではなくて、間違えて「京都 都ホテル」に行っているのかも知れないと。「ウエスティン都ホテル京都」の名称がまだ「京都 都ホテル」の頃である。電話で「場所はキョウトシンミヤコホテル」と言われた場合に、京都に不慣れな人には有名な「キョウトミヤコホテル」に聞こえるかも知れない。ましてや「京都新・都ホテル」の存在を知らなかったら、なおさらの事である。

早速、「京都 都ホテル」に電話をかけてそれらしき人物を探してもらう。だが、該当者が見つからない。もうダメかと思ったときに、モデルの彼女ら二人がノコノコとやって来た。聞けば、あまりにも皆が来ないので不安になってホテルのフロントに住所を確認してみて間違いに気がついたとの事であった。案の定、モデル3人のうちの2人がホテル名を勘違いしていた。

件のスタッフ担当者は、彼女らに「何故先にホテルの住所を確認しなかったのか」と怒っていたがこれは違う。確かに間違えた彼女たちの落ち度は大きい。また、間違いに気がついた後には「京都 都ホテル」から「京都新・都ホテル」に今から向かう旨を電話連絡するくらいの配慮も必要であった。だが、このスタッフ担当者から彼女たちへの事前の電話連絡の内容にも配慮が足りなかったのは事実である。

彼は電話口で「京都新・都ホテルと京都 都ホテルの二つがあるが、そのうちの京都新・都ホテルの方であるから間違えないように」と付け加えるべきであった。これで相手には類似した二つのホテルがあることが伝わり、ホテル名を間違えることもなくなる。

仮に相手に名称の似たホテルが二つある事を伝えなくても、相手にホテル名を復唱させるなどして確認しておけば、こんなミスは起らない。要は確認作業を怠ったために起きたアクシデントである。確認をしなかったヤツも悪い。

確認作業というのは相手がこちらに対して必ず行なうとは限らない。だから先手を打ってこちらから相手に対して確認を行なうのが確認作業である。だから、確認作業においては、「相手に伝わっていると思った」とか「わかっているものと思っていた」とか「こちらの言葉が足りなかった」などという言い訳は一切通用しない。確認をしないでおいて、いざトラブルが起きると「(予期せぬ誤解があり)相手も自分もお互いに被害者であった」などという子どもじみた意識を持って責任逃れをするのはご法度である。

おわかりのように、この「確認」ひとつ省いただけでとんでもない事体になる。悪いのは相手であっても自分たちの「配慮」が足りないと結局は自分たちの損になる。相手のせいにしても始まらない。制作の時だけではなく、日常の生活においてもこの事は絶対に忘れてはならない。こういう事がきちんと出来ない様では気が利く人間とは言えない。

結局撮影は1時間遅れでスタートしたが、今度は待たされていたレポーター役の子の機嫌が悪くなった。「確認」をひとつ怠るだけで、災難は永遠に続く。肝に銘じたい。

コピーライト2006 松本こうどう

業界こぼれ話 「お冷」の語源は英語?


冷たい水を飲んで考える・・・

制作・演出 松本こうどう

冷たい飲み水を「お冷(おひや)」という。「冷(ひや)」と言う場合もある。

考えるとチョット変わった言い方である。飲食店などで「お冷ください」と言うと「冷たい水をください」という意味である。どうして冷たい水を「お冷」とか「冷(ひや)」と呼ぶようになったのであろうか。「冷水(ひやみず)」の略語なのであろうか。語源を紹介するテレビ番組用に考案したボツネタを紹介する。

時は1874年(明治7年)にさかのぼる。東大がまだ東京医学校と呼ばれていた頃から日本の食文化には変化が始まる。そして明治28年。それまで主流であった飯屋や蕎麦屋などの日本の飲食屋に文明開化の波が押し寄せてきた。東京の銀座に西洋料理屋なるものが登場する。今で言うレストランの洋食屋である。

そこで日本人はポークカツレツなるものを生まれて初めて口にする。当時「とんかつ」はポークカツレツと呼ばれていた。「とんかつ」と呼ばれる様になるのは、後にポークカツレツが和食になってからである。

その西洋料理屋では、飯屋や蕎麦屋で出していたお茶は合わないので、西洋式に冷たい水をコップに入れて出していた。ちなみに現代でも洋食屋で出されるポークカツレツには水は合うが、お茶では合わない。だが、同じ食材なのに和食の「とんかつ」ではお茶が合うのはおもしろい。

西洋式の料理屋と出会ったばかりの当時の日本人にとっては、透明なガラスコップに入った冷たい水は珍しかった。何しろ家庭にはまだ電気冷蔵庫がない時代である。家では冷蔵庫で冷えた水など飲めない。西洋料理屋では椅子に座り、白いテーブルクロスの上の洋食とともに冷たい水を戴く。それだけで充分に文明開化を感じていた。

さてある日、ひとりのおばあさんがこの西洋料理屋に入って、入口のそばのテーブルに案内された。このおばあさんにとっては西洋食は初めての経験である。知っている蕎麦屋とは違い勝手がわからない。何の料理が出るかも知らない。まさしく西洋文化との出会いである。

テーブルについたおばあさんは、給仕(ウエイトレス)が注文を取りに来るまでの間、まわりのテーブルにいる客に出される西洋料理を眺めていた。テーブルの上の料理の横にはコップに入った冷たそうな水があり、客は美味しそうに飲んでいる。おばあさんにとってはこのコップに入った水も珍しい。

そこにイギリス人(一説にはオランダ人)と思われる夫婦が入って来て、同じように店の一角のテーブルに案内された。西洋の香りのする銀座の洋食屋に外人が入ってきた。洋食が始めてのおばあさんはこのイギリス人夫婦の一挙一動を注意深く見守る。おばさんにとっては西洋料理屋での本場の振舞いを目の当たりにして見ているような気がした。店は非常に混んでいた。そのためか、給仕はおばあさんにもイギリス人夫婦にも中々気がつかない。

そこでイギリス人の旦那が給仕に向かって手を上げ、Look Here(「お〜おい」と注意を促す言葉)の意味で「Here!(ヒヤ)」と大きな声をかけた。これでイギリス人夫婦に気がつぃた給仕は銀色の金属製のお盆にのせた、コップに入った水を持ってやってきた。

コップに入った水をテーブルに置き、イギリス人夫婦から英語での注文を緊張しながら聞く給仕。その光景を見たおばあさんは「コップに入った水」は「ひや」と言うのだと思ったに違いない。おばあさんにとっては「ひや」は英語か日本語かなどと言う次元ではない。西洋文化との出会いで聞こえた今まで知らなかった文明の言葉が「ひや」であり、意味は「西洋料理屋で出されるコップに入った水」であった。

そこでおばあさんも同じ様に手を上げ、丁寧に「お」をつけて、「おひや」と給仕に向かって声をかけた。文明開化の頃から日本人は、特に舶来のものには不自然であってもすべて「お」をつけて尊敬の念を表した丁寧な言葉とした。例えば「おビール」とか「おフランス」のようにである。

イギリス人夫婦から「ヒヤ」と言われ緊張していた若い女性の給仕。おばあさんからは「おひや」と言われた彼女はこの「ひや」から、「そうか、先ほどは外人さんから冷水(ひやみず)の事を言われたのだ」と解釈した。おばあさんは「ひやみず」に丁寧に「お」をつけ、「おひや」と略したのだと思い込んだ。おばあさんが思っている解釈とは違ったが、こう感じ取った給仕は、おばあさんに向かって笑顔で「コップに入った水」を運び、「おひやをどうぞ」と応えた。

この「おひやをどうぞ」の「おひや」と言う言葉は他の給仕たちにも好評であった。「お冷」と書かれ、銀座では誰もが使う言葉となった。東京だけでなく、銀座を訪れる地方からの客も「お冷」とか「冷(ひや)」と言うようになり、やがて日本中の西洋料理屋で使われる言葉となった。これが「お冷」の始まりとされている。

「お冷」は全く意味の違う英語の「Here」を誤解して使った日本人の「おひや」が、さらに日本語の「冷水(ひやみず)」と勘違いされて生まれた言葉であった。語源が「Here(ヒヤ)」であるので、「お冷」の「冷」は当て字だという学説もある。また、言語学的に「お冷」そのものが外来語であると見なされる可能性も高い。

最後に断っておくが、これは私が考えた話(作り話とも言う)である。想像した話だから決して人には言わないで頂きたい。本気にする人がいたら困る。特に国語学者などには絶対に言わないでもらいたい。

コピーライト2006 松本こうどう

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